2017年8月17日木曜日

新潟市 護国神社 戦没犬慰霊碑


新潟市の護国神社に行ってきました。
そこにあったのが写真の戦没犬慰霊碑です。
平成2年に元関東軍軍犬育成所により建てられたこの慰霊碑には、日名子のシェパードのレリーフが使われていました。
以前、紹介したものと同形のようです。

この作品は、こうして近年となっても使用されているのですね。
感慨深いです。

2017年8月12日土曜日

畑正吉による摸刻「エエサス作 親子」


今月は連続して畑正吉について。
3回目は畑の習作です。
制作時期は不明ですが、それほど新しい物でもないと思われます。

表には抱き合う母子。
裏側には、これも畑の直筆でしょう「親子 仏近代 エエサス作 小メダルヨリ拡大摸刻 畑正吉」とあります。

母子というモチーフは、構造社では多く使われていますが、官展では思いの他少ないです。
現代のように母子の触れ合いに価値を持つという文化が、明治頃にはそれほどあった訳でなく、作家自身にも経験が無いため、リアリティーを感じなかったからかもしれません。
畑もまた、「母子が触れ合う」という姿を、新しい文化として見ていたのだろうと思います。そうしてこの作品を模刻しようと考えたのでしょう。

裏に書かれた、メダルの原型作家「エエサス」。
この作家についてはまだ良くわかっていません。
柔らかくて、かわいらしい作品ですね。
こういった作品を造れる日本の彫刻家は、思いつかないですね。

2017年8月11日金曜日

畑正吉のスポーツ彫刻

畑正吉のスポーツ彫刻について色々考えています。
以前紹介しました石膏像「ハードル」や秩父宮記念スポーツ博物館に所蔵されている第11回ベルリンオリンピック芸術作品出品作品「スタート」等...そんな畑のスポーツ彫刻について。
https://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/08/blog-post_22.html
http://www.jpnsport.go.jp/muse/annai/tabid/69/Default.aspx

特に「スタート」に見られるような、誰ソレとわからない抽象化されたような人物像を用いて描いているのは何故だろうと思います。
畑の作品には、こういった抽象化された人物像がスポーツ彫刻の他に無いわけではのだけれど、スポーツを表すのにどうしてこれを選んだのだろう?

思うに、そういった技法を用いて畑正吉はスポーツの「動き」そのものだけを取り出して彫刻にしたかったのではないでしょうか?
選手のそれぞれの顔や表情、肉体や汗、人格、躍動感や勝敗の結果までをすべて捨て、「動き」の一瞬のみを描きたかったのではないでしょうか。
平櫛田中が「活人箭」で動の中の静を描くために弓の姿を消したように、「動き」以外の要素を消し去ろうとしたのだと考えます。
その結果、「ハードル」や「スタート」は半抽象のような姿になったと思うのです。

「動き」を描こうとした作品と言えば、20世紀初頭にイタリアを中心として起こったフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティらの「未来派」があります。ボッチョーニによる彫刻作品「空間の連続における唯一の形態」では、連続する「動き」を一つの形態で現します。
写真や映画の技術革新によって人の動きを視覚化できるようになり、こういった芸術運動が生まれらわけですが、きっと畑正吉もそれを知っていたろうとは思います。
畑の作品もまた、写真や映画の一場面を切り取ったものだと考えられるからです。

畑の「スタート」を展示したベルリンオリンピックでは、走り幅跳びの走者の姿をいくつかに分けて、その上で一つの彫刻にした連続写真のような作品があったようです。しかし、畑はそういった「未来派」的なやり方でなく、ただただ一瞬を描きます。

その結果がうまくいっているかと言われれば、私は必ずしもそう言えません。
走者の歯を食いしばる顔の無い、また筋肉が弾けるような躍動感の無い畑のスポーツ彫刻では、彼ら選手の一瞬の煌きを描いているとは感じられないからです。
「ハードル」がまさにそうなのですが、走者の顔がなんだか涼しそうにさえ見えます。
もしかしたら、制作当時の鑑賞者には、畑の描きたかったものの理解はされなかったかもしれません。

ただし、先に書いた様に、まるで機械のような「動き」そのものだけを抜き出したいという理念、そんな「未来派」に近い理念は、面白いものだと思います。そこから先、さらなる抽象化によって人の姿までもなくなるような抽象作品にするには、畑の生まれた時代は少し早すぎたかもしれません。

2017年8月4日金曜日

畑正吉作 日伊仏英米 文明擁護之大戦 レリーフ



「日伊仏英米 文明擁護之大戦」メダルの原型サイズのレリーフです。
大正3年、第一次世界大戦参戦による日伊仏英米の「同盟及連合国」を記念して制作されました。この戦争を日本では「文明擁護之大戦」と呼んでいたんですね。
また、実際のこのメダルの表には「武甍槌命」が描かれています。

原型は畑正吉。彼の直筆と思われる文章が、その裏側に墨で書かれています。
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図案並原型 畑正吉
製造 造幣局
勝利神像トシテ我国ハ
武甍槌命(タケミカヅチ) 考証高橋健次
賞勲局総裁 伯爵児玉秀雄
世界大戦従軍微章 各国一定ノ七色
表 決定図ハ勝利女神ノ正面立像ニテアルモノナレド
  我国二於イテハ以ノ如キ神像ナシ 依テ独特ノ図二○ル
裏 同盟ノ五大国梯花五牌二各国旗ノ色彩二テ表ハシ中央地球
  周囲ノ二十二ヶノ玉ハ連合国二十二ヶ国数を表ス
書 高田忠周号竹山
大正十年春
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ここには畑正吉の他に3名の名前が出てきます。
神像の考証に高橋健次(高橋健自に誤りか?)
賞勲局総裁の児玉秀雄
書家、高田忠周

高橋健自は、日本考古学会の基礎を築いた人物で、『鏡の研究から邪馬台国大和説を主張。また埴輪の研究から転じて服飾史の分野も研究』するといった、当時の古代史スペシャリスト。
児玉秀雄は政治家で、賞勲局総裁以前は内閣書記官長、1929年(昭和4年)からは朝鮮総督府政務総監を勤めます。
高田忠周は、『勝海舟のすすめにより内閣印刷局(朝陽閣)に奉職し、明治、大正、昭和にわたり紙幣金銀貨公債等の文字を担当する。内閣印刷局漢字主任となり、内閣印刷局の蔵書を整理し、説文学の研究に励んだ。説文六書の学を研究し、三代より秦・漢に至る古文字の読法及び書写法を独修、後に説文学の大家となった』と凄い人。

ここで私が気になるのは、高橋健自ですね。
古事記等で語られる神の姿を、古墳時代を考察した考古学的な知識でもって描いているわけです。
以前「神像について覚書」で書いたことが確かにそうだとわかります。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html

また、面白く思うのは、メダルに描く女神の代りに武甍槌命を描くことに了解を得ようとしている点です。
畑正吉は、神像ありきでその使用を考えていたので無く、女神を描く海外のメダルのあり方を重要視した上で、それを選択したのですね。
こういう作品が前例となって、以降の神を描いたメダルラッシュとなっていったのでしょう。