2017年4月23日日曜日

銅像受難の現代


昨今、銅像問題で色々と話題が絶えません。
例えば、韓国の(所謂)慰安婦像。
そして最近では台湾において、日本人技師の八田與一像の首が切られるという事件がありました。
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/world/article/322370

さらにその後、その報復かのように蒋介石の像が破壊されています。
http://www.asahi.com/articles/ASK4Q519YK4QUHBI010.html

銅像と言うノスタルジックな芸術が、政治的な最前線に持ち出されています。
像の首を切るというアニミズムで、まったくの前近代的な事が行われていることも同様です。
逆に言えば、(銅)像の力というモノは、人がヒトである限り持ち得るものなのかもしれません。
公共の場における銅像の影響力は、この細分化された現代世界に追いて、これからも厄介な問題としてあり続けるでしょう。
誰かの意思が象徴され照射されるモノとして、銅像の受難は続きそうです。

さて、最初にあげた2枚の絵葉書の画像は、1910年に施工され、神戸市大倉山公園内に設置された、小倉惣次郎作の「伊藤博文」像です。
実は、この画像の像が建てられる前に、同様の像が神戸の別の地(楠公社境内)に建てられています。
その銅像もまた政治的な意図で破壊されます。
その後、場所を金星台に変え、再建されたのが画像の銅像なのです。

伊藤博文と言えば、韓国にとっては日本の国粋主義者として見られているかと思われますが、明治後期の日本における立場は、そういうものではありませんでした。
彼の推進した日露戦争の講和条約に対し、日本国民は屈辱条約と感じ、1905年には暴動が起き、内相官舎襲撃や、派出所の焼討ち等が起こります。
神戸においては、楠公社境内に設置されていた伊藤博文銅像が引き倒され、市中引廻しとなります。
銅像引き倒しの際には「手伝へ手伝へ国民なら手伝わぬかッ」と怒鳴り立てた者があったとか。

銅像が世に出てたこの頃から、すでに現代と同様の事件が、銅像の身に起きているのですね。

戦後も同様の事件が起きます。
あの、本郷新作「わだつみ」像破壊事件ですね。
1969年5月立命館大学に置かれていた像を全共闘系の学生が破壊し、首に縄をつけて引きずり回すという事件が起きます。
戦前・中派にとっては反戦のシンボルであったわだつみ像は、当時の学生にとって社会の、大学権力のシンボルとなっていたのです。
http://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=125
立命館史資料センターの、この資料は面白い!
「(像を倒して)得意げなトロツキスト(トロツキー主義者)」とあります。
トロツキストは、左派内で批判的な相手に対し用いる言葉のようなので、特定はできないようですが、当事者はたぶんまだご存命ですよね~~

レーニン像の時もフセイン像の時もそう。右も左もどんな政治的な立場であれ、人は同じことを繰り返すのでしょう。

2017年4月22日土曜日

畑正吉 渡仏時代の写真

彫刻家、畑正吉は1907(明治40)年から3年の間、農商務省海外実業練習生として渡仏します。
当時の写真がご遺族より東京文化財研究所に寄贈され、公開されたようです。
http://www.tobunken.go.jp/materials/hatapict/242722.html

畑の他には藤川勇造や安井曾太郎の顔が見られます。
特に注目なのは、「菅原精造」と「菊地鋳太郎」です。

菊地鋳太郎は、1859(安政6)年の江戸に生まれ、1876(明治9)年に工部美術学校の彫刻学科に入学、ヴィンチェンツォ・ラグーザの指導を受けます。
工部美術学校は後に廃校となりますが、彼は日本塑像家最古参の一人です。
http://www.tobunken.go.jp/materials/hata_18591945

>1910年には自らヨーロッパを巡遊して西洋美術の石膏像を購入し、事業の拡大を図った。
とあるように、美術教育の基礎に関わった人物のようです。

菅原精造郎ですが、この人は凄いですね。
1884(明治17)年山形県生まれ、東京美術学校の漆工科撰科に入学。
1905年渡仏し、生涯をパリ中心に過ごす。
アイリーン・グレイとの知遇を得、彼女と共同制作した「夜の魔術師」をサロンに初出品、評判を呼ぶび、フランスの地で漆芸家として活躍。

ナチスの迫る1937年のパリ郊外ロスチャイルドのシャンティイ別荘で肝臓癌の為、54歳で逝去したそうですが、ロスチャイルドの別荘ってなんなの!って感じですね。
シャンティイ別荘とは、古城ホテルとして名高いシャトー・ドゥ・モンヴィラルジャンヌだろうと思われます。
http://www.chateaudemontvillargenne.com/

その作風は、アール・デコであったと言いますが、これはまさに抽象彫刻ですね。
http://hibiyal.jp/data/card.html?s=1&cno=2938
日本人に、こういった人物がいたのですね。
注目です!!

2017年4月16日日曜日

芸術の終末と宗教

今日は、犬山市の岩田洗心館へ「芸術の終末」について、三頭谷さんのお話を拝聴してきました。

お話の中にあった、日本の芸術への信仰が昭和初期にピークを迎えたという説。
私もそう思います。
そして、その信仰が現代では形を変えており、その結果「芸術」という分野が衰退していくだろうとのことでした。

そこで思うのは、現代における新興宗教の衰退です。
宗教学者の島田裕巳が言うには、『生長の家が衰退し、PL教団も衰退している。天理教も立正佼成会も、そして霊友会も信者の数は減っている。しかも、衰退の勢いはかなり激しい。』とのこと
http://online.sbcr.jp/2015/12/004150_2.html

この衰退の推移と、日本芸術の推移とは同調しているのではないか。
私はそう考えます。
というより、日本の芸術とは、新興宗教の一分野だったのではないかとさえ思います。

日本の新興宗教史をまとめると
1.明治初期の内村鑑三を代表とするキリスト教の広がり
2.明治後期から大正にかけての新宗教、大本や天理教やの組織化
3.昭和10年の大本事件に見られる国家による弾圧
4.戦時下の宗教の一元化
5.戦後の創価学会等の拡大
6.80年代の新興宗教の世界への進出
7.昭和の終わりとオウム真理教事件
8.現代、新興宗教の衰退
簡単ですが、こんな流れかと思います。

これに日本の日本彫刻の状況を当てはめてみれば、例えば1.なら、キリスト教信者でもあった近代彫刻の祖、荻原守衛がその時代を代表し、2.ならば岡田式静座法を信じた中原悌二郎ら、荻原守衛の次世代作家の広がり。
3.なら、芸術信仰のピークを体現する橋本平八、堀江尚志、木村五郎ら若い彫刻家の死。
4.では、戦争彫刻。
5~6.では、1949年からの読売アンパン時代からの公共彫刻乱立期。
7.ポストモダン時代...
ちょっとざっくりし過ぎてるかもしれませんが、こうして見れば、新興宗教の発展・衰退と芸術のそれとは同じような流れであったと言えると思います。

そう考えれば、「芸術の終末」を芸術のみの分野で考えるわけにはいかないでしょう。
そして、新宗教が今後どうなるかを考えることができれば、芸術もまたどうなっていくかの予想ができるかもしれません。

2017年4月12日水曜日

まだ見ぬメダルたち

戦前彫刻家のメダルをコレクションし始めて、もう6年目。
しかし、未だ出会えないメダルはまだまだあります。

一番会いたいのは、高村光太郎のメダル。
高村光太郎は「大町桂月」のメダルや、波書店の店章となった「種まく人」のメダルなどを製作しています。
この世にいったい幾つ現存しているでしょう?
どこかで出会える日を楽しみにしています。

朝倉文夫の昭和17年に出された著書「美の成果」には、彼のメダル製作について書かれています。
『昭和の百人一首と百人一句とを募集したから、その当選者に贈るメダルの原型を作ってくれと、廣田君が報知新聞社の依頼を伝えてきた』
『「歌の聖と言えば人麿、俳句の聖と言えば芭蕉、それを1個のメダルの場面に組み立ててみるか」』
『歌の聖と俳句の聖とを対座させて、天上天下、宇宙万象、和歌と俳句の世界としてしまった』
『一個のメダルの中に一千年の隔たりのある二人の聖をこうしたえにしの糸でつないだのであった』

この人麿と芭蕉のメダルも未見...

まだまだ旅は終わらないッス!

2017年4月2日日曜日

高山公園二於ケル軍神廣瀬中佐ノ銅像 絵葉書


かつて高山公園(現高山城跡城山公園)にあった廣瀬中佐の銅像です。
「杉野! 杉野はいずこ?」と究極超人あ~るで鳥坂先輩が叫んでましたが、私がこれを読んでいた当時は中学生、元ネタなんてわかりませんでしたよ。

さて、そんな廣瀬中佐こと廣瀬武夫は、日露戦争の英雄です。
大分出身の彼は、飛騨高山にて子供の時期を過ごします。
この銅像は、その小学校の同窓生によって明治38年に建てられたものです。
明治40年には東京神田の万世橋にも廣瀬及び杉野両名の銅像が建てられますが、これを制作したのは彫刻家渡辺長男。
そして、それより先に制作された、この高山の銅像もまた渡辺長男によるものです。
渡辺長男は廣瀬中佐と同じ大分の出身。それゆえに白羽の矢が立ったと思われます。

この廣瀬中佐の銅像は、昭和18年の金属回収で撤去されます。
その時、同じく回収されたのが、高山市東国民学校にあった幼年期の姿を描いた銅像で、作者は地元の医者にして彫塑家の中村清雄。

回収された公園内の銅像は、実は現存しています。
昭和42年に復元されたのですね。
しかし、よく見ると、この復元された銅像と、当時のものとでは形が異なるようです。
当時の銅像をもう一度見てみましょう。
たしかに台座は当時と同様のようです。
廣瀬中佐の姿は、勲章を身につけた正装に、特徴的なのは立派な顎ひげ。
万世橋の銅像には、こんな顎ひげはありません。
どうやら同窓生たちに求められ渡辺長男が、その姿をさらに立派に盛ったのではないかと思われます。
この勲章たちも死後に得たものかもしれません。
この銅像の原型が無いために、現在の銅像の姿で作り直されたのでしょう。

死者を立派に描きなおすという思想は、直接死者に行う死化粧や、死後の結婚を描いた山形県の「ムサカリ絵馬」、たぬき寺の軍人像の姿など、死者との繋がりが深ければ深いほど行われたものだと思います。
遺族にとってはできるだけ立派な姿でいて欲しい。
しかし、明治期以降に「リアリズム(写実主義、自然主義)」という考えが浸透していく中で、銅像制作を行う彫刻家はその均等を図るようになっていったのではないでしょうか。

朝倉文夫は「銅像に聴く」としたエッセイに中でこう述べています。
『故人に対する家族の印象というものは、案外あてにならぬものだ。一つの像を廻ってその、未亡人と子供とでは印象が違う。又兄弟でも。女と男で異なり、長男と末っ子で違う。』
銅像制作中にあれやこれや言う未亡人に対し
『「奥さんはご主人の像が動けばいいでしょう」「そうです」「動いた上に、お話が出来たら猶いいでしょう、併し彫刻ではそうは行きませんよ」などと、ある程度で止をささぬと制作が出来ない事すらある。』

つまり、死者と交わりがあるが故に、その像の姿は変わっていくと言うことです。
この戦前の廣瀬中佐の銅像もまた、単なるモニュメントではなく、死者としての廣瀬武夫を描いた物であると言えます。

死者とは、現在の私たちに繋がる者です。
廣瀬武夫と私たちは繋がっている。
そいった思いに馳せるためにも、当時作られた銅像の姿で、現在の高山市に建っていればと思ってしまいます。