2015年10月11日日曜日

進藤武松作 ラグビーの灰皿



ラグビーワールドカップでの日本チームの快勝で盛り上がる日本。
日本のラグビーは1920年頃から広まる古くて新しいスポーツですね。
その結晶が今の日本ラグビーにあると考えると、なにか想うものがありますね。

そんな戦前の日本のラグビーの一つの姿を写したのが、この進藤武松の作品です。
この作品の裏には、「KURO 2595 12 20」とあります。
皇紀2595年は、昭和10年、その当時のラグビー界は、「第17回全国中等学校ラグビーフットボール大会」などが行われます。
この12月20日に行われた大会が何で、この灰皿がどんな目的で使われたのか知ることができませんでしたが、「kuro」の意味がわかればもう少し理解できることがあるかもしれません。

当時の進藤武松は、構造社の齊藤素巌に師事、前年には構造社展で構造賞を受賞した新進気鋭の作家でした。
この作品を見ても、その肉体と躍動感が素晴らしい。
ただ今の選手と違い。細マッチョですけどね。

同じ構想社の日名子実三も昭和7年、ロスオリンピックの芸術競技会に「ラグビー」を出品しています。
そうした流れから進藤に依頼が来たのかもしれません。

それにしても灰皿とスポーツなんて、今となっては合わせることを思いもしないもの同士なのでしょうけど、ただほんとうに美しい作品ですね!

2015年10月10日土曜日

小さな藤田嗣治展

県立図書館に行こうとしたら警官で溢れかえっていて、しかも土曜なのに休館だった...
というのも今日は、図書館横の岐阜県美術館に皇太子殿下がいらっしゃったからだった。
殿下はこの美術館で行われている「小さな藤田嗣治展」をご覧になられたそうだ。

この展覧会、岐阜県美術館にしては(失礼)立派なものだと思っていたらこういうことだったのか!

それにしても、今回の殿下の観覧、日本を捨てた藤田はどう思うのだろうか?
そして殿下はどう思われたのだろう?

2015年10月2日金曜日

喜多武四郎の葉書 純粋彫刻論


昭和16年、彫刻家 喜多武四郎による昭森社の森谷均宛の絵葉書です。

昭森社は1935年に創業した出版社で、美術書や詩集を多く手掛けました。

この葉書の内容は、「例の橋本平八君の遺稿出版の件」と、1935(昭和10)年に亡くなった橋本平八の遺稿、実弟で詩人の北園克衛によって出版される「純粋彫刻論」について、経過はどうかと尋ねています。

喜多武四郎は、橋本平八と同い年であり、また同じ日本美術院の同人でもあったことから、なおさら気にかけていたのでしょうね。
そのために、養生先の宮城の青根温泉からこの絵葉書を送ったのでしょう。
そんな喜多武は、昭和11年に美術雑誌「アトリエ」に亡くなった橋本平八を偲んで「橋本くんを憶ふ」と文章を寄せ、ロッククライミングの綱が突然切られたようだと友の死を悲しんでいます。

この絵葉書が送られた翌年。昭和17年に、「純粋彫刻論」は出版されます。
     

2015年9月27日日曜日

建築学会 学術賞 メダル


昭和13年度 建築学会 学術賞 「正員伊藤正文君」メダルです。
このパルテノンの図は日名子実三作のようです。
では、その裏面の図は何かというと、奈良の薬師寺にある三重塔のてっぺんにある水煙(すいえん)の図柄なんですね。
この図柄を用いてこちらも日名子がデザインしたようです。
それにしてもパルテノンに薬師寺とは、世界を相手にしようとする当時の建築学会の気合いを感じますね。
日名子自身は彫刻家としてよりデザイナーとして関わったと言えるこのメダルですが、とても美しく力強いものになっているかと思います。
ことろで、学術賞を授与した「伊藤正文」ですが、関西の近代建築家で大阪市立美術館などの設計に関わった人物だそうです。
そんな著名人が所有していたはずのこのメダル、どうして世に出てきたのかな?

2015年9月19日土曜日

再開します。

色々あって暫く書いていませんでしたこのブログですが、また再開したいと考えています。
ただいま準備してますので、もう少しお待ちください。

2015年5月10日日曜日

加納鉄哉の領収書

これもちょっと変わった資料で、加納鉄哉の領収書です。

加納鉄哉は岐阜県出身の彫刻家で、高村光雲が教える前の東京美術学校で、ほんとに少しの間だけですが教鞭をとっていた人物です。

辞めた理由はよくわかりませんが、かなり癖のある人物であったらしく、それが影響したのかもしれません。
もしかしたら、光雲もなかなか慣れなかったという、岡倉天心指示による東京美術学校の制服に不満があったのかもしれませんね。

そんな人物ですから金銭面でもけっこう問題を抱えていたんじゃないかなんて思ってしまいますが、こうやって領収書を出すくらいは社会性があったようですね。
まぁ、これは代理人が書いたもののようですが。

こういった文を読む技術が未熟なので、間違っていたら指摘していただきたいのですが、
木彫に百二十円、箱に二円、合計百二十二円を受取ったという証文ですね。

明治期の1円は現在の1~2万くらいの価値だったと言うので、百二十二円とは、多く見て240万くらいでしょうか。
そんな木彫ってなんだろう??

2015年5月3日日曜日

長沼守敬 近藤由一 銅像 契約書

手に入れたのは結構前だったのですが、GWで時間も取れるしと確認に開いてみたら驚いた!



これは銅像の契約書です。
銅像のサイズや作業期間、作業場所などが書かれています。

そして、その作業にあたるのが、明治時代の彫刻家、 長沼守敬(もりよし) 近藤由一。
なんと、その署名があります!

長沼守敬は、東京美術学校塑造科の初代主任教授です。日本近代彫刻史の先発作家ですね。
近藤由一は、工部美術学校彫刻学科の第一期生。

彼らが制作した銅像で、この条件にあたるのは、山口市亀山公園にある毛利敬親の銅像です。
現在も同地に建っていますが、これは戦後に再建したものです。
長沼守敬は毛利敬親だけでなく、毛利元周、毛利元蕃、毛利元純、毛利元徳と毛利家の藩主を同時期に作成しています。契約書に四公とありますが、この4名のことでしょう。
きっと、長州藩系の実力者に頼まれた仕事だったんでしょうね。
そういえば安倍首相も長州ですね~。

契約書によると、銅像は東京砲兵工廠で完成することとなっています。
靖国神社の大村益次郎像もここで造られたものですね。
いや、これは面白い資料だ。当時の銅像の写真が手元にないのが残念です。

2015年5月1日金曜日

Intermission 「若林奮 飛葉と振動」展 所感

現在、名古屋市美術館で行われています 「若林奮 飛葉と振動」展に行ってきました。

http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2015/wakabayashi/

名古屋市美術館は、荒川修作みたいな詩的で哲学風味の作家が好きですね。

この作家の作品を始めて拝見したのは何年前だろう?
その時感じたことを、今回こうやってまとめて作品を見ても変わらず、同じように感じました。
それを言葉にするとしたら、この作家はお化け煙突を目印に遊ぶ両津勘吉なんだろうなってことです。
これではわかりづらいと思うので、もう一つ例えるとしたら、諸星大二郎の名作「僕とフリオと校庭で 」の世界観に彼の作品はあると思うのですよ。

子供、夕焼け、煙突、工場、隠れ家、UFO、SF、自分を見下ろすモノ...

彼の作品は、工場を遊び場にしていた子供、僕自身がそうであったのですが、その世界を思い出させるんです。
かといって、つげ義春のこれも名作「大場電気鍍金工業所」のようにリアリズムがあるわけでもなく、社会性があるわけでもない。
そこが詩的な所以でしょうね。

哲学や美術が社会と乖離し、純粋にただそれだけの存在となってしまったかのように、子供の毎日がいつも新しくあるように、若林奮の作品は浮世を離れ、ただ在るというモノなのだろうと思います。

彼の作品は、神の目線というか世界を俯瞰で見ています。
人を外から見ている。
ランドスケープ的というか、建築的というか、そういった視線で作品が成っていると思います。
その視線の在り方が浮世離れした印象を与えるのですが、唯一その視線が地に着く時があるようです。
それは彼がモチーフに犬を使う時で、それはまるで「僕とフリオと校庭で 」のラストシーンのように、もう戻らない子供時代を振り返るような懐かしさを感じさせます。

2015年4月25日土曜日

高村光雲 米原雲海 善光寺絵葉書

今回も時事ネタ...なのかな。

只今、信州善光寺を中心に、全国の善光寺で本尊如来像の御開帳が行われています。
その信州善光寺には、大正8年、原型を高村光雲が行い、米原雲海によって作成され納められた仁王像、三面大黒天、三寳荒神像が奉られています。




残念ながら大黒天の絵葉書がありませんが、これらは当時の参拝記念土産として発売されたものではないかと思われます。
また、写真を見るに高村光雲の原型を絵葉書にしたのではないかと思うのですが、どうでしょう。

「観光」という文化が日本に定着しだした大正期、古くから「遠くとも一度は詣れ善光寺」と言われた善光寺参りもより身近となったのでしょう。
「帝室技芸員」「文展審査官」というのが全国的に知られた権威であったということもわかります。

来月GWに長野に訪れる予定はあるのですが、きっと人だかりで、車も停めれないんじゃないかと臆しています。どうしよう。

2015年4月18日土曜日

パラオと土方久功

先日、陛下がパラオを訪問されましたね。
この時、戦時中のパラオがどんな状況だったかを、色んなメディアで放送されていました。

 ペリリューの戦い

パラオは第一次世界大戦後に日本の委任統治領となり、1922年に南洋庁がコロール島に設置されて内南洋の行政の中心となります。

戦前、そんなパラオを愛し、日本とパラオとの橋渡しをした彫刻家がいます。
それが、土方久功です。

土方久功は、1919(大正8)年に、東京美術学校彫塑科に入学、1929(昭和4)年にパラオに渡り、公学校の図工教員として彫刻を教えながら、同地の民俗学意的な調査を行います。
その後、南洋庁に勤務し、病で帰国するまで南洋の地で過ごします。

そんな土方久功の作品は、南洋の地の民芸的木彫のような野性味溢れる作品で、高村光太郎の目に止まり、広く紹介されるようになります。

終戦間近、昭和 19年には岐阜県可児市に疎開し、しばらく過ごします。
この可児市は私の地元でもあり、 そういったこともあって土方久功に興味を持ったというのもあります。

いつか手に入れたいと思っていた土方久功の作品が、思っていたよりも早く紹介できることとなりました!


 土方久功 作 「一番小さな顔」です。1952年頃の作品なので、戦後のものですね。

顔が半分欠けていて、多分一度作ったもの指で押しつぶしたのではいかと思われます。
そういった欠けが、埴輪のような古物の雰囲気を持たせますね。

戦前のものでは、彼の作品を絵葉書にしたものがあります。




この絵葉書は南洋群島文化協会が発行したものです。
 「日本のゴーギャン」と呼ばれた土方久功ですが、これらの絵を見ると、まぁしょうがない面もありますね。

親日国であるパラオですが、こういった人たちの個々の支えによって現在があるのですよね。

2015年4月16日木曜日

牧雅雄 画 軍鶏図



昭和6年に描かれた牧雅雄による軍鶏の図です。
牧雅雄は日本美術院の彫刻家で、昭和10年に48歳で亡くなっています。

昭和10年は、堀江尚志や藤川勇造、木村五郎、陽咸二、そして橋本平八と近代彫刻史に名を残す作家たちが若くして亡くなった年です。

手元に昭和11年のアトリエ第十三巻、第二号があるのですが、ここにその前年に亡くなった牧雅雄と橋本平八の追悼文が載っています。
筆者は 石井鶴三に喜多武四郎、福田正夫、新海竹蔵です。

牧雅雄は、はじめ彫塑を行っていましたが、後に木彫を始めます。
この石井鶴三の追悼文にこうあります。
「いつのまにどうして木彫の技法を覚えたのか。まだ其技法には未熟なところがあったが、牧君のような人が木彫をやるのならば、将来は必ず面白いものがあろうと楽しみにしていたのだが。」

この軍鶏図も、木彫制作と同時期のものだろうと思います。
たしかにめちゃくちゃ上手いとは言えない画ではありますね。
 

同郷の詩人福田正夫は追悼文に詩を寄せています。
「牧の道は一つしかなかったようだ。どこまでも、恐らく永久に未完成の道-彼は完全ではなくて、途上の人だ」

現代では、橋本平八の名前を知っている人はいるでしょうけど、牧雅雄を知っているという人は少ないでしょう。
彼は日本の彫刻史に深く名を刻むこともできませんでした。
途上の人がその旅を終えてしまえば、後は忘れ去られるだけですね。

でも、こうやって誰かが時々思い出せば、縁(えにし)は続き繋がると思うのですよね。 

2015年4月12日日曜日

Intermission 式場隆三郎

 椹木野衣 著「アウトサイダー・アート入門」に、恩師である三頭谷鷹史 著「 宿命の画天使たち 山下清・沼祐一・他」が紹介されていました。
その影響でしょうか、実はその山下清をプロデュースした式場隆三郎の著書をコレクションしています。

 式場隆三郎 著「ヴァン・ゴッホの耳切事件」サイン本

式場隆三郎という精神科医は、山下清だけでなく、ゴッホについての啓蒙書を多く著し、また「アウトサイダー・アート入門」にもありましたが、二笑亭の紹介などをしたりしています。
いわゆるプロデューサーみたいなものですね。

私の蔵書をちょっとのぞくと、「戦争と脳」「炎と色」「ゴッホの素描」「山下清作品集」「宿命の藝術」「ロートレック」「四十からの無病生活」「ファン・ホッホの生涯と精神病」etc...と彼自身の書いた本が本棚に並んでいます。
そんな多くの著作を世に出した式場隆三郎ですが、実は彼について論じた本というのは無いのですよね。

私は、山下清や二笑亭よりも「式場隆三郎」という人物が面白いと思うのですよ。

セックス・ピストルズも好きだけどマルコム・マクラーレンの方に惹かれます。
平賀源内とか、「モハメド・アリ vs アントニオ猪木戦」をプロデュースした康芳夫とか、こういった山師は魅力的だと感じるのですよね。
どこかで秋元康が麻雀する映像を見たのだけど、なかなか背中が煤けてて面白かった。

「式場隆三郎」もそういう傑出したプロデューサー(山師)の匂いを感じるのです。

彼は、精神科医として高村光太郎の妻智恵子の診察を行うといった医療活動を行いつつ、柳宗悦やバーナード・リーチなどの知識人と交流を持ち、山下清などのいわゆるアール・ブリュットに関わり、ゴッホの研究と啓蒙を行うという表の側面と、戦後のカストリ雑誌における性教育と称したエロ本に著述をするといった裏(?)の面を持っています。

こういう縦横無尽の姿が魅力なんです。


現代でも「脳」と付ければなんでも学術的(のように)語ってしまう茂木健○郎という人がいますが、「式場隆三郎」も精神科医という肩書きで、どんなものでも語りえてしまう。
その結果、山下清を「あぁ、あのタンクトップ着たおじさんね」 と誰もがイメージできる現状を生み出してしまっている。
それは良い面、悪い面あるだろうけど、そのダイナミズムは面白い。

後は、彼についてまとめた本か、展示なんかがあればな~(希望)。

2015年4月4日土曜日

Intermission 未来派第二回美術展覧会 絵葉書




1921(大正10)年に行われた 「未来派第二回美術展覧会」の絵葉書です。
上記の二枚は、その年に来日し、名古屋にて木下秀(一郎)と未来派の講演会を行ったロシア未来派の画家ダヴィド・ブルリュークの作品と、その木下秀(一郎)の作品。

未来派という、当時の最先端の思想でありながら、それがジャポニズム的なのが面白いですね。 
特に木下の作品からは、この思想を日本人として自らに取り込もうとする意気込みを感じます。


尾形亀之助の「朝の色感」
尾形は後に前衛美術団体マヴォにも参加する詩人。
絵画も作成しており、この作品も木下秀(一郎)に誘われ出品したらしい。


 とにかく日本の「未来派」は評判が悪い。
その理由は、当時情報の少ない中で、作家たちがよくわからずに制作を行っていたことによります。

簡単に言えば、「未来派ってなんだか先端ぽくてカッコイイな!」というノリで、黒人ファッションが似合いもしないのに ダブダブな服を着てキャップを斜めに被って「悪い奴はダイタイトモダチ」みたいに粋がっているめんどくさい若者たちの作品でしかないと思われているからです。

だけど、そういうめんどくさい若者の一人だった私からしたら、愛しい作品だななんて思うわけで、その後のある程度評価のあるマヴォやアクションなんかより興味を持っているわけです。


だからといって、こういう作品を紹介して啓蒙しようというつもりもありません。
最近、椹木野衣著「アウトサイダー・アート入門」を読んだのだけど、どうしてこの世代は啓蒙的なんだろう、特にローカルチャー の評価みたいなことを、その消費者が望んでもいないのに行いたがるのだろう。
 「アウトサイダー・アート」も「後美術」も、そう名づけ評価を行う政治性がすでに時代に合わない気がします。美術のフロンティアなんて今時言えるのは凄いけど。

同時に佐谷眞木人著「民俗学・台湾・国際連盟 柳田國男と新渡戸稲造」を読んで、自身の政治性に敏感だった柳田國男であれば、そんな啓蒙主義の終焉、彼の「民俗学」という言葉の役割の終焉にも敏感であったのかもしれないと思いました。

 まぁ、私にしても美術のフロンティアなんて、過去の作家の夢の中にしかないなんて思っているからこんなブログをやってるわけで、そんな終わった夢から覚めないのは同じなのですけどね。

2015年3月29日日曜日

陽咸二 作「第八回全日本中等学校剣道大会」メダル

日名子実三についで紹介の多い陽咸二のメダルです。



この 「第八回全日本中等学校剣道大会」では、古代の武人をモチーフとした図柄となっています。

彼の代表作「サロメ」や「灯下抱擁」などを見ても思うのですが、彼の骨格の無いような作風はどこから来てるのでょう?
陽咸二は、小倉右一郎門下で、かなりしっかりとした技術力があるだけに、これは彼なりの美意識ではないかと思うのですが。

まず、当時の作家たちに多大な影響を与えたクロアチア出身の彫刻家「イヴァン・メシュトロヴィッチ」からの影響も指摘できるでしょう。
ただ私は、このメダルの図形を見て、もう一つ影響を与えたものがあると思っています。
それが、「埴輪」です。


以前、「埴輪の美に就いて」と題して文を書きました。 

高村光太郎の言う「此の明るく清らかな美の感覚」を、その造形性を取り込むことで陽咸二は表現しようとしたのではないでしょうか。
そのため、埴輪にある骨格が無く、丸っこい造形が彼の作風となっているのではないか。

彼の特質である和洋折衷的な感覚は、「イヴァン・メシュトロヴィッチ」と「埴輪」とを結びつけることをも行ったと言えるでしょう。

2015年3月22日日曜日

Intermission 東山動植物園の彫刻


子供を連れて、名古屋の東山動植物園に行ってきました。

この東山動植物園は、動植物の鑑賞だけでなく、戦前より文化活動に力を入れており、鶴舞公園にあった時代から、岐阜に疎開していた岡本一平や瀬戸に住むことになる北川民次らによって作品展示や児童画教育などを行っています。

現在も園内のいくつかの場所に、動物を説明するパネルだけでなく、彫刻的な作品が建っています。
これらは、もちろんメインではなく目立つものではないのだけど、この園の培ってきた時代を感じさせ、 とても素敵なコラボレーションになっていると思います。


池の辺に立つ裸婦像


 
カバの前で


あいにく、園内のいくつかの場所が工事中で、あまり作品の写真が撮れなかったのが残念です。(子供の写真を撮る片手間だったしね!)

実は今回探していた作品がありまして、佐土哲二という彫刻家が制作したと言うカバの噴水の作品でした。
それが、写真の最後にある蛙を乗せたカバの作品です。


佐土哲二は、日本美術院の作家です。
彼はちょっと変わった経歴の持ち主で、実は小説家、国木田独歩の息子です。
そして、小林多喜二のデスマスクを取った人物でもあります。
また、画家中川一政の近所に住んでいたらしく、彼の著書で描かれてもいます。

佐土哲二に、カバの像を依頼したのは石川栄耀という人物で、名古屋の都市計画の基礎を築いた人として知られます。
この東山動植物園のブログに詳しいいきさつが紹介されています。
http://www.higashiyama.city.nagoya.jp/17_blog/index.php?ID=1754

このカバの上にある蛙の口から水が出たんですね!
あの凶暴なカバという動物にかかわらず、実に可愛らしい作品でした。

2015年3月17日火曜日

「八紘一宇」が話題になるとは...

>日本中から各県の石を集めましてね、その石を集めて『八紘一宇の塔』ってのが宮崎県に建っていると思いますが、これは戦前の中で出た歌の中でも、『往 (い)け、八紘を宇(いえ)となし』とか、いろいろ歌もありますけれども、そういったものにあってひとつの、メインストリーム(主流)の考え方のひとつな んだと、私はそう思う」

麻生太郎財務相の答弁ですが、ここで話された 『八紘一宇の塔』とは、このブログでもなんども取り上げています日名子実三によって原型が制作された八紘之基柱(あめつちのもとはしら)ですね。

下が以前書いた文章です。
日名子実三 作「八紘之基柱」絵葉書


今回は、日名子による原型と、彼の描いた完成予想図の絵葉書を紹介します。
これらの方が作家の意図が明確に伝わってきますね。
日本の古代、神話の時代を思わせます。
このような「信仰」を造詣する日名子実三は力量のある作家だったのだと思います。
宗教的な造形物は、作り手に本気の「信仰」がないと、貧弱なものになりがちだからです。





2015年3月15日日曜日

名古屋汎太平洋博美術展 出品作





「名古屋汎太平洋平和博覧会」は、1937年(昭和12年)の3月15日~5月31日まで名古屋市南区熱田前新田(現・港区港明)で行われ、その美術展に出品された作品の一部が上記の絵葉書の作品のようです。
第二次世界大戦前で最後で最大の一大博覧会であり、終了2ヶ月後に日中戦争が勃発しています。

「名古屋汎太平洋平和博覧会」については、こちらで詳しく説明がありました。http://network2010.org/article/147

こんな記事もありました。
http://www.tobunken.go.jp/materials/nenshi/1907.html

これによると、名古屋在住者による委員会の設置を希望したようですが、実際はどうだったのでしょう?
上記の絵葉書での彫刻家、津上昌平は福岡の出身で小倉右一郎門下の作家ですね。
この他にどんな作家がどのように関わったのか、知りたいところです。

愛知での博覧会や大規模な美術展といえば、平成元年(1989)年7月から11月の4ヶ月間行われた「世界デザイン博覧会」や2005年3月から9月まで行われた「愛・地球博」、そして「あいちトリエンナーレ」などがありますね。
こういったお祭りはあまり戦前と変わりませんね。
戦争直前の「平和」の博覧会と現在の「あいちトリエンナーレのテーマ「虹のキャラヴァンサライ 創造する人間の旅 Homo Faber: A Rainbow Caravan」と比べてみて、意味のわからないテーマを掲げる現代の方がある意味健全なのかもしれないな、などと思います。

2015年3月8日日曜日

Intermission 妖怪のせいなのね...

 

菊地章太 著「 妖怪学の祖 井上圓了」や末木文美士 著「日本宗教史」などを読む。

末木文美士という方は、井上圓了に繋がる人ではないかと思う。
知に思想が流れる人。

それはともかく、この「 妖怪学の祖 井上圓了」に、井上圓了の哲学としての仏教、在家主義の思想が新興宗教、特に創価学会を生みだした地となっていると暗に書かれていました。
そして、それに反する肉体的実践としての仏教、出家主義の宗教がオウム真理教だ。
オウム真理教が創価学会を攻撃したのは周知のとおり。

井上圓了の時代から現代まで、日本宗教史、そしてなにより日本史は繋がっているのだな~。

また、井上圓了の周辺、対した柳田國男や柳宗悦、彼らの民俗学が日本優越論と繋がり戦争を肯定する事など、そしてそれゆえに左派的でユートピア(千年王国)を求める水木しげるの「鬼太郎」と対して現実主義的(あの世が近接していて、ある意味実社会上での解決を行うしかない)な「妖怪ウォッチ」。

あぁ、こうやって歴史は作られていくのだな。

写真は子供の頃に集めてた 鬼太郎」の消しゴム人形コレクションの一部。
一点だけ「悪魔くん」のがあるのだけど、これは大人になってから購入。
十二使徒全部揃ってないんだよな~

2015年3月7日土曜日

中牟田三治郎 作「国際水上競技大会」メダル

彫刻家、中牟田三治郎の三回目の紹介です。
以前(ナカムタミチロウ)と紹介したのだけど(サンジロウ)が正しいみたいですね。

具象作品の多い中牟田ですが、これはイメージ化された対象を描いています。
高村豊周は彼の作品にドイツ表現主義の影響を見、「内へ内へと省みさせ考えさせる美である」と賛辞を送っています。
確かに、このメダルにある構成的で完璧主義的な美は、ドイツ表現主義彫刻を代表するエルンスト・バルラハの宗教性に近いものを感じますね。
 
この作品の原型は、1928(昭和3)年に行われた第二回構造社展に出品されています。
現在は福岡県立美術館に所蔵されているようです。
水泳をモチーフにした作品の多い構造社ですが、その中でも優れた作品の一つではないかと思っています。

2015年2月22日日曜日

第二回大東亜戦争美術展覧会出品 「撃滅」 峰考 新田実(共同作品)


第二回大東亜戦争美術展覧会出品は、1943(昭和18)年12/8~から翌年1/9まで行われた展覧会です。
辻晋堂、中村直人、横江嘉純など有力な中堅作家が多数参加しています。

この作品で見ていただきたいのが、二人の作家による共同作品だという点です。
現在でも、コラボレーションとして異種の作家や、またそれぞれの作家の持ち味を生かしての制作という手法はありますが、このようにどの作家がどこまで手を入れたのかわからないような作品はあまり目にすることが無いかと思います。

それを可能にしたのが、この時代性です。

明治以降、例えば皇居の楠木正成像のように、高村光雲以下多数の作家が参加して制作したモニュメントなどがありました。
しかし、 高村光太郎が『人が「緑色の太陽」を画いても僕はこれを非なりと言わないつもりである。』と個性やオリジナリティの価値を高く掲げた後には、芸術の本質がそこにあると考えられるようになりました。
そして戦争の時代、再び「時代のモニュメント」として共同制作による作品に価値が与えられるようになったのです。
個性やオリジナリティを殺してでも、この時代を表すこと、日本の戦争の時代であることの価値を掲げることに主題が変わりました。

また、この時代は、新文展といった官展だけでなく、大東亜戦争美術展覧会や聖戦美術展のような軍部主導の展覧会が数多く行われました。
ここでは、見た目に何が描かれているかわかり易く、戦う兵士への祈りの対象となりえる彫刻への需要が高く、生産性の低い彫刻作品でも数多く必要とされました。
そういった時間の制約もあって、共同制作といった手法による制作の必要があったと言えます。

これを現代の目で見て、芸術ではないと言うのは簡単なのかもしれません。
しかし、これを美術史から外してしまえば、この線上にある日本の美術史が歪んでしまうと思うのです。

2015年2月15日日曜日

作者不詳の彫刻



最近手に入れた作者不詳の作品です。
「1950 I H(?)」とありますがはっきりしません。

モデルは、掌の赤ん坊で、蓮(?)かなにか花を握っています。
仏教の逸話か何かかもしれないと探しましたがこれもはっきりしませんでした。

というわけで謎の彫刻。
飾って楽しんでいます。 

2015年2月1日日曜日

Intermission 奇書! 浅利篤著「児童画とセックス」



昭和34年発行の浅利篤著「児童画とセックス」です。
この衝撃的な題名の本では、多くの児童画を紹介しながら、そこに現れる病理を解明していきます。
かいつまんで言えば、作者は児童画に現れる「赤」と「緑」は性を象徴する色であると主張しおり、そこに病理が現れるのだと。



心の病をその絵から読み解く心理検査は、ロンブローゾの時代から現代でも行われいることでしょうし、その絵に表れるイメージに何かしらの意味づけすることもあるでしょう。
心が性と深いかかわりを持つというのは、フロイトの言うリビドーといったもののように、あることなのかもしれません。

では、何がこの本を奇書としているかと言えば、そういった病理を児童画と、そして性(セックス)とを結び付けていることです。

それがショッキングに思える理由の一つは、子供と性(セックス)という隠しておきたい事柄を直接的に結び付けている点にあるでしょう。
また、児童画とは、かつて自由画と呼ばれ、「大正期の美術教育運動の中で「児童の個性と創造性の開発をめざして山本鼎(かなえ)によって提唱されたもの」であり、そこには、美に対する理想郷として児童画(自由画)がありました。
この本は、そんな美の理想郷に病理と性(セックス)を持ち込んだからだと言えます。

児童画だけでなく、アール・ブリュットに対しても、社会から離れた美の理想郷としてそれを見る人があるようですが、ここに薄ら汚れた人間が土足で入り込んだ印象をもたらしています。

ですが、よくよく考えてみれば、この社会に繋がりを持たないものなど無く、理想郷などそれこそ夢物語でしかありません。
アール・ブリュットなどのある種の美に対し、特権をもたらしているのは私たちの方なのだと、この本は言っているようにさえ思えます。

「児童画とセックス」 だけでなく、「アール・ブリュットとセックス」だってありえるのですね。

昨今、障害者と性が話題になることがありますが、それは大切なことだと思えます。
ただし、そういったことを視覚化しようとする思いだけでなく、隠してしまこともまた、人間の「美意識」なのであり、美術もまたそれぞれに特権を与えることで加担しているのだという自覚が必要なのだと思います。

2015年1月25日日曜日

山本瑞雲 筆 般若心経


山本瑞雲は慶応3年生れ、明治15年高村光雲の門に入り伝統的木彫技法を継承する。内国勧業博,シカゴ万博などで入賞。また仏像の制作、修復にあたった。昭和16年死去。

この書も仏像制作にあたって書かれた般若心経だと思われます。
優しい字ですよね。
気負いが無いと言うか。自然な写経。
こういうのって良いよな~。

2015年1月21日水曜日

中村不折の葉書


今、一番好きな書家(?)は中村不折。
これは、印刷なのだけど、いつか本物が欲しい!
 とある骨董屋に置いてあったのだけど、書って贋物多そうだしな。

2015年1月20日火曜日

佐藤玄々(朝山)の書


佐藤玄々(朝山)の書は凄く上手い。
この書もいつ頃のものかはわからないけれど、立派なものだ。
ただ、立派過ぎて、こう、なんだか息苦しい。

癖のある人物だったという佐藤玄々。
この書のように圧力のある人だったんだろうな。

2015年1月19日月曜日

山崎朝雲 筆 「敵国降伏」



山崎朝雲は、 1867(慶応3)年生まれ。本名は春吉。別号は羯摩。
この書には、別号の羯摩と朝雲の落款があります。

これが朝雲77歳の時のものであるなら、昭和19年の大東亜戦争時に書かれた物だと思われます。
であるなら、「敵国」とはアメリカのことなんでしょう。

寄書きを戦地に向かう兵隊に持たせたように、書や文字には呪術的な力があると考えられました。
「敵国降伏」も、そのような意味で山崎朝雲が誰かに望まれ、書いたものなのかもしれません。

高村光太郎がそうであったように、戦前の彫刻家で書を行う者は多い。
ただ、嗜みとして書かれたものなので、たとえ一流の彫刻家でも、光太郎の書のように作品と呼べるまでにはいかないようだ。