2018年5月23日水曜日

イワン・メシュトロウィッチの木彫

 大正13年の「意匠美術写真類聚. 第2期 第5輯  メストロウィッチの彫刻集」より
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/976839
メシュトロウィッチの作品は、戦前の構造社ら彫塑作家に大きな影響を与えました。
では彼の木彫はどうだったでしょう?


 この作品集にある木彫は、木材を縦に切り、木の形状そのままに像を彫っています。
像の背景には鑿跡が残り、平面全体を強く印象付けています。
私の知識の範囲だけで言えば、戦前の日本に於いてこのような表現主義的な木彫のレリーフは無かったのではないかと思います。

 戦前の表現主義的な木彫作家と言えば橋本平八ですが、彼の木の姿を生かして制作された作品にも、このようなレリーフは無かったのでは。
ただ、橋本平八は鉈彫を意図して制作しており、鑿跡を残した作品はあります。

 橋本平八は、師匠の佐藤朝山や弟の北園克衛の影響で海外の作品にも明るく、もしかしたら彼の鉈彫や木の姿を生かす思想は、円空や東北の仏像だけでなく、イワン・メシュトロウィッチの木彫の影響があったのかもしれませんね。



2018年5月12日土曜日

Intermission 藤田嗣治 本の仕事

現在、目黒区美術館で『没後50年 藤田嗣治 本のしごと』展が6月10日まで行われています。
さすがに希少本とはいきませんが、私のコレクションより、藤田が挿絵を描いた本の紹介です。
まずは、1929年の「Michel GEORGES-MICHEL著 Les Montparnos. Roman illustré par les Montparnos.」
モンパルナスに集まった画家たちの絵が掲載された本書ですが、表紙は藤田の自画像です。

パリの寵児となった藤田の、この正面を見据える自画像から、それを自覚的に演出する彼の気概を感じますね...

もう一冊は「YOUKI DESNOS LES CONFIDENCE DE YOUKI」。
こちらは戦後1957年の本、「お雪」ことリュシー・バドゥの回想録です。
こちらも表紙は元夫の藤田のもの。
中にも藤田の自画像があります。

この挿絵にあるように日本語で「勉強」と「働け」を掲げ、正座して絵を描き、そしてモンパルナスのカフェで女性に抱かれる...この矛盾したあり方を体現しているのが明治生まれの男、藤田嗣治であり、彼の魅力なんですよね。

2018年5月5日土曜日

Intermission 戦時下の絵画

防空頭巾を被った男子の図
日本画の様ですが、時代、作家ともに不明です。
もしかしたら戦後のものかもしれません。

作者の銘が入っていないので写しなのかも。それとも習作かな?
習作だとしたら、同じような構図の作品があるかもと色々探してみたのですが、見当たらず...

ただ、こうやって子供が防空頭巾を被っていることがモチーフになるのは、終戦間近だったのではないかと思います。
鞄に挟まれた紅白の旗が手旗信号の物だとしたら、それを授業で習い始めるのは、これもまた終戦間際のようです。
そこから、昭和19年頃を描いた、またはその当時に描かれた作品ではないかと思います。

ただ、その当時の子供がこんなにふくよかで良いのかな?
けれど、だからこそ安心してこの絵を観れるのですけどね。

2018年4月29日日曜日

自由学園美術展覧会 絵葉書



自由学園は、大正10年にクリスチャンだった女性思想家の羽仁もと子と羽仁吉一の夫婦によってキリスト教精神(プロテスタント)に基づいた理想教育を実践しようと東京府北豊島郡高田町(現・豊島区)に設立。
現在も、幼稚園から大学まである一貫校として運営されています。「自由学園美術工芸展」として美術の展覧会も行われているようです。

この絵葉書は、戦前に自由学園が行っていた「自由学園美術展覧会」の彫塑作品や絵画です。

実は、自由学園の発足当初からこの学校の美術教育に関わってきたのが、自由画教育の提唱者であった山本鼎です。
そして、彫刻については、木彫を吉田白嶺が、彫塑を山本鼎に推挙された石井鶴三が、大正15年から昭和15年まで教えてきます。
山本鼎との関係も深く、児童自由画協会の会員でもあった石井鶴三は、山本鼎の教育論の彫刻での実践者として適任だったのでしょう。

そう言われると、これらの作品になんとなく石井鶴三臭がするかなぁ~と。

また、石井の発案で、こういった絵葉書が発売されるようになったそうです。彼のおかげで、こうして当時の作品を見ることができるわけですね。感謝。

2018年4月22日日曜日

BankART school「 いかに戦争は描かれたか」を読む。

この本は2015年にBankARTスクールで行われた「戦争と美術」と題した講義をまとめたもので、講師は大谷省吾林洋子河田明久木下直之

戦争画についての研究は、戦争画が話題となった1970年代と比べ本当に隔世の感があるなぁと感じました。
戦争体験者が生きていた頃より、今の方が情報が増えているというのは、まぁ、何と言いますか、人間って難しいですね。

藤田嗣治について、多くの情報が出てくるようにありましたが、例えば戦時下の朝倉文夫の戦争協力について語られたものはほとんど見たことがないですね。
高村光太郎については、吉本隆明の本がありますが、アレは詩ですしね。
この本でも忠霊塔などのモニュメントについての講義はありましたが、彫刻についてはほぼノータッチで悲しい。

河田明久さんが、支那事変(日中戦争)時と大東亜戦争(太平洋戦争)時の作品の違いを語られていましたが、彫刻はどうだろうと思い、支那事変時の聖戦美術展と大東亜戦争時の大東亜戦争美術展の彫刻を見比べてみました。

以下が昭和14年7/6~7/23に行われた聖戦美術第一回展の出品作家と作品。

相曾秀之助 傷つける伝書鳩
赤堀信平(招待) 生鮮下の観兵式を拝するして
池田鵬旭 默壽
一色五郎(会員) 従軍記者
伊藤國男 重要任務
伊藤國男 敵陣蹂躪
江川治 征空基地
遠藤松吉 蹄鐵工
大内青圃(招待) 初陣
大庭一晃 水と兵士
岡本金一郎(招待) 腰留め撃ち
小川孝義【大系】 少年快速部隊長
加藤正巳 芽生え行く新東亜
木林内次(出征) 戦盲
木林内次(出征) 傷兵M君像
古賀忠雄 狙撃
古賀忠雄 爆音のあと
坂口秋之助 銃後の婦人
坂口義雄(出兵) 陸軍看護婦
酒見恒(招待) 行軍-群像の一部-
鹿内芳洲 相場の門出
鈴木達 伝令犬
中川爲延 尚武
永原廣 荒鷲
中村直人(会員) 工兵
羽下修三(招待) 蒙原睥睨
橋本朝秀(招待) 伝書鳩
長谷川榮作(会員) 病舎ノ一隅
羽田千年 平和への労苦
濱田三郎(招待) 出征譜
春永孝一 稜線
日名子実三(会員) 慰問袋
宮島久七 皇軍來
宮元光康 濁流
村岡久作(出征) 手榴弾
梁川剛一(招待) 瑞昌の人柱-細井軍曹-
吉田三郎(会員) 軍犬兵
吉田三郎(会員) 治安恢復
吉田三郎(会員) 偵察

聖戦美術展での絵画の特徴は、支那事変の大儀の無さに故に、そのイメージが固定されず、例えば絵画では、支那兵(中国兵)が描かれないとか、背を向けた日本兵が俯瞰で立っている大陸の風景画だとかが多い。
では彫刻はどうだと言えば、兵隊が立っていると言う様な作品にそれほどの違いは見られないのだだけど、ただ聖戦美術時にはモニュメントが無いと言えます。
そして、大東亜戦争美術では、ただ立っている兵隊でもモニュメンタルな象徴としてあることに比べ、聖戦美術では、よりモチーフの個人性が際立っているように思えます。
だから大東亜戦争美術では個人を描く胸像がほとんどありません。
言うなれば聖戦美術はより銅像的であり、大東亜戦争美術はよりモニュメント的だと言う事ですね。

その中でも、中村直人だけは、日本人を美化して描けていて、それによって彼が戦争彫刻のトップランナーに成り得たのだとわかります。

この日本人をある意味記号化して描くというスタイルは、戦後の佐藤忠良らに引き継がれるわけで、この時代はそれを用意したと言えますね。

2018年3月30日金曜日

FUMIO YOSHIMURA Nancy Hoffman Gallery 個展DM

「FUMIO YOSHIMURA」は戦後アメリカで活躍した日本人の彫刻家です。
彼が1973年にNancy Hoffman Galleryで個展を開いた時のDMがこちら。

手紙自体は、作家ではない人による記のようなのでぼかしています。(なんだかお怒りの手紙...)

さて、「FUMIO YOSHIMURA」ですが、
Wikiによれば
《東京芸術大学で絵を学び、1949年に卒業。
1960年代初頭にマンハッタンへ(1963年だと思われる。後述するケイト・ミレットの日本からの帰国に合わせて)フェミニスト作家のケイト・ミレットと結婚( 1985年に離婚)
タイプライター、ミシン、自転車、またはホットドッグのような日常的なものの彫刻を木彫で精密に製作するスタイルで、超現実主義と関連しているが、彼は作品を物体の「ghost」と表現している。
1981年よりダートマス大学で准教授として教鞭を執る。
2002年7月23日 死去》

日常品を細密木彫によって表現するスタイルは、現代でも見られるものですが、当時はポップアートや、シュールレアリスム、スーパーリアリズム等で語られたのでしょう。
彼が木彫を「ghost」と呼ぶのは、能や能面との関連を思わせますね。
それにしても、失礼ながら、こういったアメリカで活躍された日本人彫刻家がいたことをまったく知りませんでした。

それと、「FUMIO YOSHIMURA」についてネットで調べていますと、「吉村二三夫」と「吉村二三生」と両方表示されますが、ごちらが正しいのでしょう。

「吉村二三夫」では、中川直人オーラル・ヒストリーでケイト・ミレットとの出会いの仲介者として紹介されています。
「吉村二三生」では、1953年に成立した青年美術家連合に「フォール」から流れで参加したとあります。

どうも「吉村二三生」が正しそうです。
というのも、「シュルレアリスム宣言」を訳した評論家の巖谷國士にとって吉村二三生は母方の叔父にあたるそうで、彼の「かえで」という文章で叔父への思い出を語っています。
かえで

海外に渡って活躍した日本人彫刻家の先駆者と言えば、川村吾蔵を思い出されますが、どちらも日本での展覧会を行うことなく、母国で忘れられた作家というのが共通しています。(吉村二三生の名前さえあやふや...)
こういう作家は、まだまだいるのでしょう。
日本美術史の教科書で語られる作家だけが、日本の作家ではないですよね。

また、日常品の精密木彫といえば、1970年代の鈴木実の作品を思い出されますが、彼とは交流あったのかな?

それと、このバイクの種類がわからなかったのだけど、なんでしょう?
YAMAHAかな?
詳しい写真はこちら

2018年3月17日土曜日

長谷川義起 作「東京帝大総長賞」トロフィー

長谷川義起と言えば、スポーツをモチーフとした彫刻、特にベルリンオリンピックで等外佳作となった相撲をモチーフとした作品が思い浮かびます。
高岡古城公園で見ることの出来る「国技」等が代表作ですね。

その長谷川義起による、ゴルフをプレーする姿を描いたトロフィーがこちらです。


このトロフィーは、昭和10年、ゴルフのコンペで用いられたもののようです。
病理学の教授で東京帝国大学第12代総長となった長與又郎の寄贈した物だとわかります。
彼は東京帝国大学野球部長も務め、スポーツへの造詣も深かったようですね。

現在、東京大学には長與又郎の銅像がありますが、作者が不明です。
http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DPastExh/Publish_db/1998Portrait/03/03200.html#077

そのトロフィーの裏側のプレートには歴代の優勝者でしょうか、多くの名前が載っています。
・本位田祥男(経済学)
・岸田日出刀(建築学)
・大河戸宗治(土木)
・田中於菟弥(インド文学)
・矢追秀武(医学)etc...

そうそうたる顔ぶれですが、惜しむには、この像が長谷川義起の相撲の像に比べ、どこか硬い印象を与えることです。
パターだからしょうがないのかもしれませんが、彼のダイナミズムが見えなくて残念。

まぁ、でも野々村一男の裸でゴルフに比べたら...




2018年3月14日水曜日

Intermission 靉嘔 ~70年代の本

特にコレクションしているわけではありませんが、手元にある本を紹介します。
アーティスト「靉嘔」が1970年代初頭に出版(?)した本だと思われます。

現在、埼玉県立近代美術館で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」が開催中で、「靉嘔」の作品も展示されているようですね。



さて、この本ですが、版元が無いことから自費出版だと思われます。
内容としては、当時の靉嘔の雑文から、手紙、雑誌に記載した文が載せれられています。

久保貞次郎との手紙のやり取りや、イサム・ノグチとの日々、福井の人との関係、オルデンバーグやウォーホルとのイベント等、大変興味深い。
ここに書かれていることの多くは、彼のアーカイブ「靉嘔オーラル・ヒストリー 2011年11月6日」と同じです。(当たり前ですが)
ただ、作品の画像は殆ど載せていません。この当時は、作風を限定されることを嫌がっていたのかもしれませんね。

私としては、彼の作品をどう見たら良いのか分かりかねていたのですが、この本の一文でなんとなくわかるような気がしました。
「アメリカのポロックなどのアクションペインターは自然主義なんですよ。しかし土壌が違うから個人の合理性が根本にあるわけですね。・・・合理的な土壌がなければ、ぼくはいやだという気がする。・・・日本の場合は違いますね。拒否するものというのではなしに.....。」
彼は、(当時の)日本の湿った自然主義を嫌って、アメリカのポップを求めたのでしょう。
とは言え、私から見れば靉嘔のポップも大概に湿っているように感じますが。
まさに「拒否するものというのではなしに.....」なんでしょうね。

この湿り気は、例えば斎藤真一のポップにもあり、横尾忠則のポップにも感じます。
それに村上隆もそうです。
逆に感じないのは、草間彌生に日比野克彦、奈良美智...

あぁ、「靉嘔」は日本的な作家で、その文脈上にあるのだと、そう思いました。

2018年3月7日水曜日

ロシアの絵葉書

「デッチスキー公園ノ銅像(浦潮)」絵葉書です。
「浦潮」とはウラジオストク。
この絵葉書はウラジオストクのデッチスキー公園に建つ銅像前で撮った写真から作られたものだと思われます。
ウラジオストクと日本との関係は古く、日露戦争後には日本人街が生まれます。
この絵葉書は、訪れる日本人に向けて売られたものでしょう。
あの与謝野晶子も、シベリア鉄道に乗ってウラジオストクまで来ています。


絵葉書にある銅像ですが、ネット上を色々と探しましたが、見つからず...

しかし、公園内に建つ同じような台座を見つけました。
ただ、上にある像の姿が異なります。

この像は、「セルゲイ・ラゾの記念碑」だそうです。
セルゲイ・ラゾはロシア革命の戦士だそうで、そうなると、この絵葉書の時代に現状の像と同じ人物の像が建っていたとは考えられません。
当時の像を破棄され、今の姿に変えられたのでしょうか。
台座に比べ、像が新しい(キッチュ)である理由も説明できます。
となれば、かつてこれは帝政ロシア、ロマノフ王朝の誰かだったのかもしれません。
だからこそ、それを写真に撮り、記念の絵葉書としたのでしょう。

済軒学人著「浦潮斯徳事情」によれば、ウラジオストクには、美術奨励会なるものもあったようで、この地で仕事をした日本の芸術家たちもいたことでしょう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932607

そういったこの地の成果も全て、あのシベリア出兵(の失敗)の結果、全て失ってしまったのでしょうね。

もう一枚は、ロマノフ朝第13代ロシア皇帝であるアレクサンドル3世の銅像の絵葉書です。
この銅像は現在も存在しています。
https://fr.dreamstime.com/photo-stock-statue-%C3%A9questre-%C3%A0-l-empereur-alexandre-iii-st-petersburg-image58721034
ただ、絵葉書にある台座からは外され、別の場所に置かれているようです。

どの国のどんな銅像に於いても、始めは恒久的な顕彰を目的としながらも、なかなかそうはいかないものですね。

2018年2月28日水曜日

日名子実三原型 満州帝国皇帝訪日記念章

1935(昭和10)年は、満州の年号で康徳2年。
その4月6日、愛新覚羅溥儀は、天皇の招待により日本の地に降り立ちます。
その訪日は、日本をあげての祝日だったと言います。
この「満州帝国皇帝訪日記念章」は、その訪日を記念し、関係者に渡されたものだそうです。

原型は日名子実三。
戦を示す鏃の形に美しい花の姿と、相反する組み合わせですね。
この花ですが、菊でしょうか?
もし菊であれば、鏃と合わせてどちらも当時の日本、特に皇室のイメージです。
しかし、満州皇帝の訪日の記念に日本のみのイメージで表すというのは、どうも不自然な気がします。
であれば、満州の花、迎春花(オウバイ)なのでしょうか?
葉は似てますが、花の形や枚数が違います。
正解はなんでしょう?

下の動画は、戦前の流行歌「満州娘」です。歌詞に迎春花が出てきます。

また、記念章の中央には、「一徳一心」とあります。
これは『目的や利益が同じ者同士が心を一つにして事にあたること。または、君主と臣下が協力して物事を行うこと。』を指す言葉だそうです。
「日満一徳一心」は当時の満州との関係を表す言葉として、よく用いられたもののようです。
どちらが君主で、どちらが臣下だったのでしょうね?

2018年2月23日金曜日

Intermission 鈴木大拙と式場隆三郎

以前から戦時の仏教思想に興味があって、いつかちゃんと勉強したいと思っているのだけど、どこからはじめたら良いか迷っています。
特に鈴木大拙については、ちゃんと学ばなくちゃと思いつつ....その周辺である山田奨治著「東京ブギウギと鈴木大拙」を読む。
この本は、どちらかと言えば、大拙の息子のアランを軸に語った本です。
ただ、大拙の姿を神格化せずに書いていて、ここから大拙の姿を学び始めれた事は、良かったと思います。

前から興味があって、このブログでも何度か取り上げた式場隆三郎は、アラン挟んで鈴木大拙との親戚になります。アランの三番目の妻が式場の娘なのですね。
そして、柳宗悦を挟んで、師弟でもあります。

こちらがその相関図

式場隆三郎自身が鈴木大拙について書いた文章もいくつかあるようです。

私は、鈴木大拙や式場隆三郎、柳宗悦にアランも含め、彼らが自身の戦争にどういった思いを抱いていたか、とても知りたいと思っています。
彼らがどう考え、どう影響しあったのか。
さらに、民芸や児童画、山下清まで、それらがどのような影響下にあったのか。
そして、現在の私たちにどのように影響を与えているのか?

この「東京ブギウギと鈴木大拙」では、欧米人とのハーフであり、実の子でもなかったアランが戦争にたいしどう感じていたのか、それまでは書かれていません。
しかし、この本のような周辺の研究が当時の歴史全体に光を当てるような気がします。

ちなみに私の浅はかな考えですが、不肖の息子アランを育てたのは、やっぱり僧侶でもない(体験を共にしない)鈴木大拙の禅思想だったような気がします。
そして、戦争との関係は、著者が言うように、禅よりも真宗との関係で見直したほうが良いのではと思いました。

2018年2月14日水曜日

建畠大夢による日独伊親善図画記念品

以前紹介しました、昭和13年に行われた森永製菓株式会社主催「日独伊親善図画」の記念品ですが、この原型を制作した彫刻家の名前がわかりました。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2017/02/blog-post.html
その作家は、建畠大夢。
彼が森永製菓に依頼され、制作したのがこの可愛らしい仏画のようです。

この記念品と一緒に渡された建畠大夢のメッセージがあります。
此度森永製菓株式会社が日独伊親善図画を企画するに當りその記念碑原型制作を依頼され私は喜んで之に応じたのであります。
まことに子供の世界は争も、憎しみもない平和な世界であって、私達の最も憧憬している親善の極致でありましょう。
万国共通の言語-図画を通じて表現される新しい力に満ちた子供の世界をモチーフとして、その姿をとりあげ、私は原型制作に當って見ました。
愉しい子供の世界をいささかでも再現でき、各位の御期待の万分の一にも副う事が出来れば望外の幸せです。 建畠大夢

今の私たちからすれば、日独伊の国家に争いも憎しみも無い平和な世界を見ることはできません。
当時はそれを夢見ることができたのですね。
そして、それを作品として託すことができた。
この無邪気で優しい作品は、裏返って残酷にも思え、...なんとも複雑な気持ちになります。

2018年2月12日月曜日

幸福な王子-銅像の幸せとは考察-

アメリカのリー将軍像や各国の慰安婦像、国内の裸婦像や、バブル期に乱立したランドマーク等々の問題、平瀬礼太著「銅像受難の近代」という本がありますが、現代もまた銅像にとって受難の時代ですね。
明治150年を記念しても、当時芽吹いた問題は現在になっても解決していません。

銅像があるイズムを持つものである限り、それに反感を持つものは必ずあるわけで、所謂ポリコレの立場からすれば、公共に特定のイズムを表する銅像など存在できない物です。
しかし、それでも人は何かを主張したい、表現したいといった呪怨から逃れられないものであります。

そういった思いを維持しつつ、他者との共存、つまり銅像が幸せにあるにはいったいどうしたら良いのでしょう?

先に「特定のイズムを表する銅像」と書きましたが、例えば日本の最初期の銅像である楠正成像なんて、正にそうですね。皇居外延に建てられたこの像は、天皇への忠義の象徴です。
だからこそ、戦前は修学旅行先に楠正成像観覧が選ばれたのでしょう。

では、もう一つの最初期の銅像、上野の西郷像はどうでしょうか?
現在、NHKで「西郷どん」が始まりましたが、彼は言わば反政府軍の親玉ですよね。そんな像が上野にど~んと建っているわけです。

西郷の死後、1889(明治22)年の大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷に正三位を追贈たことより、薩摩藩出身者が中心となって銅像建設計画が始まり、1898(明治31)年に建てられます。
建立の目的は、西郷の名誉回復、彼の思想の普及、上野戦争の弔い等々、なによりも薩摩の権威向上がそれだったでしょう。
しかし、この銅像建立には、彼が反政府の立場であったことから、権威を示す表象が削られ、場所や服装など大幅な手直しがなされた結果、現在の形となります。
つまり、この銅像は特定のイズムだけでなく、初めからその反対のイズムを取り込む形で出来上がっているのですね。

その結果、西郷像の建立の目的の表出が薄れます。
目的が薄れたことで、西郷隆盛像を目がけて紙玉を投げつけるという土着信仰的な奇妙な風習が流行(鼻に当たると出世すると言われた。)、関東大震災の時には、尋ね人の貼り紙を貼る掲示板代わりにされます。

楠正成像では考えれないようなあり方、より庶民に近い西郷像となったのですね。
そういった曖昧な姿だからこそ、「上野戦争の弔い」を勝者側のみのイズムのみで語らない、今で言うダークツーリズムとしての象徴ともなります。

そんな愛される西郷像こそが、銅像の幸せの姿だと私は思うわけです。
これは、政治的な判断が熟慮された結果のイズムの複雑化、西郷隆盛のキャラクターのお陰と、いろんなファクターが重なった結果であり、他の銅像も同じようにできるかと言えば、難しいのかもしれません。
誰もが見ても愛される象徴を意図するなど不可能なのかもしれません。
もし、それを可能にする姿があるとすれば、それはそういった銅像にめがけて誰もが紙玉が投げることができるかどうか...それで見分けができるのでしょう。

京都大学内に設置された「折田先生像」なんかも紙玉を投げることができる銅像ですね。(撤去させられましたが...)

つまり、その像の姿やデザインの問題ではなく、私たちが紙玉を投げることが出来る態度になっていること、それが銅像建立の為の条件であると思うのです。

慰安婦像に誰もが紙玉を投げることが出来ないのなら、それは銅像の幸せとは言えないのだと思います。
とは言え、銅像ではありませんが、沖縄県読谷村の洞窟「チビチリガマ」が荒らされた事件は許されるのかと問われれ、やりすぎだと答えれば、そのラインを示すのは難しいのですが。
しかし、そういう態度が絶対に許されないようでは、銅像たちは幸福な王子となって楽園に召されることはないと思うのです。

2018年2月7日水曜日

Intermission 大正12年 森口多里の年賀状


大正12年は癸亥の年。この年に出された美術評論家森口多里の年賀状です。
古代ギリシャの壷に描かれた図と、自身の原稿とを組み合わせた隙の無い年賀状ですね。
お洒落です。

森口多里は戦前を代表する美術評論家で、抽象に入りかけた辺りまでの美術を積極的に言葉で表現します。
その仕事の幅は広く、彼の啓蒙力によって戦前の美術は作られたといっても良いくらいです。

しかし、現在は殆ど語られることがありません。
評論というのが前世代を否定することで成り立つためか、戦中ぐらいには、森口多里の仕事は古臭く思われていたようです。
そして、戦後は忘れられます。

しかし、日本美術史を知ろうと思えば、作品以上に、時代々の美術評論家たちの声を聞く必要があると思うのです。
美術評論の推移を体系的に知ること...こういったことが本当に重要です。
私たちが何者なのかを知る為にも。

そんな美術評論家を主体にした展覧会ってできないかな?
「岡倉天心から針生一郎まで 美術評論家は何を残したのか」なんて...

2018年2月4日日曜日

大連・星ヶ浦 後藤伯銅像の絵葉書

大連の星ヶ浦公園(現星海公園)にあった後藤新平伯の銅像です。


絵葉書には以下の内容が書かれています。
『星ヶ浦公園の丘上に第一次満鉄総裁たりし後藤新平伯の銅像が其功績を永遠に伝へて屹立している。
この星ヶ浦の公園は満鉄が此地を買収して星ヶ裏ヤマトホテルの前進たる海岸ホテルを建て園内道路其他の設備を行ひ又一般避暑地として別荘や付属建設をなし初めて公園らしい体裁を整へた。』

この銅像の建立は1930(昭和5)年。
1929年に後藤新平が亡くなり、彼の意思に基づき東京美術学校正木校長に依頼され朝倉文夫が制作を行いました。

この朝倉文夫の「後藤新平」像ですが、実は現在も同型の像を見ることが出来ます。
場所は、岩手県奥州市水沢区中上野町にあります水沢公園、岩手生まれの後藤新平を記念し、1978(昭和53)年に建立したものです。

こうして作品が残って見ることができるというのは嬉しいですね。
ただ、絵葉書にある大連にあった銅像はどうなったのでしょう?
なにより大連と言う日本の租借地で、当時の現地の人たちは日本人の業績を記念したこの像をどう見ていたのでしょう?


複数のイデオロギーが焦点をなし、その思いを受ける媒体となる銅像のあり方、問題は、今も昔も変りません。
私たちは今年、そんな銅像たちに違うあり方を見出すことができるでしょうか?

2018年1月1日月曜日

明治42年の年賀状 菊地鋳太郎の「石膏模型ニ據リ画ヲ学フ図」

謹賀新年!2018。
今年は明治150年!
ということで、今年最初の絵葉書は、明治の年賀状です。
彫刻家、菊地鋳太郎の明治42年の年賀状「石膏模型ニ據リ画ヲ学フ図」


菊地鋳太郎は、明治9年工部美術学校の彫刻学科に入学し、ラグーザに学んだ第一世代の彫刻家です。
この世代の作家達がそうであるように、彼もまた美術の枠組みを作ることを仕事とし、美術教育の質向上のためにデッサンの勉強に用いる石膏模型の販売を行います。
この図画手工用石膏製作所は、そういった石膏の販売や石膏像制作を受け負った菊地の会社だと思われます。

菊地は買い付けに海外に行くことも多かったようで、その頃の写真がこちら
http://www.tobunken.go.jp/materials/hatapict/242716.html
年賀状が出された翌年の43年の写真です。
巴里にて、畑正吉や新納忠之介らと共に撮影されています。
若かりし畑正吉らにとって頼れる先輩だったのではないでしょうか?

また、菊地は明治29年の白馬会の立ち上げに尽力し、さらに美術を学ぶ場として設立された白馬会研究所は、一年間彼の自宅が提供されました。

この「石膏模型ニ據リ画ヲ学フ図」の描かれている場所はその白馬会研究所ではないかと思われます。
明治42年当時、岸田劉生や岡本帰一らがそこで学んでおり、もしかしたら彼らの姿が描かれているのかもしれません。

ただ、少し疑問に思うのは、彼ら学生の姿が皆学ランを着ていることです。
私塾であった白馬会研究所には制服はなかったでしょうし、当時の制服のある美術学校と言えば、東京美術学校になりますね。
東京美術学校では、天心のコスプレのような制服から、明治40年に学ランに変更されています。
当時の東京美術学校では藤田嗣治や岡本一平らが在籍していました。
もしかしたら、この「石膏模型ニ據リ画ヲ学フ図」は東京美術学校の姿なのでしょうか?
私の知識ではどちらかわかりません...

そんな学生達は、中央のラオコーンの半身像を中心に思い思いにデッサンしています。
他にも石膏像がありますが、ラオコーン以外は何でしょうか?
それにしても、こういう学生が集まってデッサンする熱い空気は、明治も現在も変りませんね。