2017年2月24日金曜日

戦時下の痕跡本

敗戦の年、昭和20年1月3日に発行された「美術」です。
当時は多くの美術雑誌が廃刊か統合され、この「美術」のみとなります。
表紙の熱帯魚たちも、当時の読者からしたら日本兵が戦っている南洋を思い出させるイメージであったでしょう。


その中に「時評」として、「軍事美術研究会」についての記事があります。
内容は、こういった組織が美術家たちの仕事の土台となり、時局に必要な美術を提供しなければならない...といったことが書かれています。
その年の1月中旬には、この「軍事美術研究会」の講演会が行われる予定があり、その予告記事が載っています。
講演内容は、
1.軍事知識より見たる作戦記録画 -山内一郎大尉
2.構図上より見たる作戦記録画  -柳亮
3.戦争画の名作研究       -森口多里、富永惣一郎、田中一松

この研究会も興味深いですが、それ以上に思うのは、前年から激しくなった米軍の空襲下でもこうした「美術」に勤しむものなのだということです。
その2ヵ月後、3月10日、あの東京大空襲が起きます。


今日紹介するのは、こうした美術雑誌の記事ではありません。
実は、その記事の欄外に読者が落書したろう跡が残っているのを見つけました。
ちょっと読みづらいので、そのちりばめられた文字の近くにピンクで書き直してみましたが、おわかりでしょうか?

←右から左へ

←右から左へ

左から右へ→

左から右へ→

まとめて読めば「ウチデハヒナンジュンビヲススメテヰ(イ)ル ホンドジョウリクニソナエテ」となります。
『家では避難準備を進めている。(米軍の)本土上陸に備えて』ということでしょう。

空襲の下、美術家たちが「美術」に精を出している時、その読者は美術雑誌を手にしつつも、生きるか死ぬかの準備を行っているのですね。

日常の延長上に生死がある。
これが戦争ってものなんですよね。

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