2017年7月7日金曜日

日名子実三のシェパード像 ブック・スタンド

日名子実三は幾つか動物の像でメダルを制作していますが、これはシェパードをモチーフとしたブックスタンドです。
ちゃんと2対あり、そのどちらにも同じレリーフがあります。
このシェパードの像ですが、他にも化粧品用のコンパクトに用いられていることが確認されており、もしかしたら使用権をデパートなんかの業者に渡したのかもしれません。
ただ、このブックスタンドの円形のレリーフをみると、もともとはメダル用に制作したのかも。

日名子はシェパードの他にもエアデールテリアを飼っていたらしく、多くの軍用犬のメダルにその姿を描いています。
第二回軍用犬展覧会 メダル

犬好きの彫刻家として知られる作家には、他に藤井浩祐が上げられますね。
犬の著書まで出しています。

逆に猫好きは、朝倉文夫や木内克です。
犬を好む彫刻家と言うのは、その構造物としての確かさを好むのでしょうね。猫のような柔らかい姿を好む彫刻家の方が少数のような気がします。
その二者は交わらないのでしょう。そう考えると、日名子が朝倉文夫から離れた理由はそこにあったと言えるかもしれません!

また、馬と言えば、池田勇八。そして、皇居前広場の楠木正成像の馬像を制作した後藤貞行に、近衛騎兵だった新海竹太郎。
高村光雲の老猿のように猿、獅子、兎、牛、猪などは彫刻のモチーフとして多く使われています。

メダルで言えば、齋藤素巌のホッキョクグマといった変り種もあります。
このホッキョクグマとライオンは、1902年に、ドイツのハーゲンベック動物園から上野動物園に贈られたものだと思われます。

そして日名子の山羊。
このメダルは東京市で行われた「動物写真撮影週間」記念章です。
このイベントがどういったものかはわかりません。
そのモチーフに山羊を選んだのは何故でしょう?

動物をモチーフにしたメダルは、まだまだ探すとありそうです。
干支ぐらいはコンプリートしてみたいですね!

2017年7月1日土曜日

展覧会参加のお知らせ

もう2017年も半年が過ぎました。
昨年の岐阜県博物館マイミュージアムでのコレクション展では、テンヤワンヤでありましたが、私の敬愛する先生方にも会えて、素敵な一年でした。
今年もどこかで展示を行いたいと思っていたところ、東京の小平市平櫛田中美術館様からお声を掛けていただき、9月よりメダルを主とした特別展に参加させていただくことになりました!
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平成29年度 特別企画 「メダルの魅力
会期:9月13日(水)~11月12日(日)
小さなメダルの中には彫刻家の世界が広がっています。メダルに魅せられた蒐集家のコレクションを中心に、メダルの魅力をご紹介いたします。
http://denchu-museum.jp/
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先のコレクション展でお見せした作品に加え、新たにコレクションしたメダル等と、畑正吉によるレリーフなどを展示したいと考えています。

また、私のトークイベントなども企画されているようですので、詳しいことはこのブログで紹介していきたいと思っています。

日本の近代MEDAL ARTを世に知らしめるべく、残りの半年も精一杯活動していきます!

2017年6月16日金曜日

清水久夫著 「土方久功正伝 日本のゴーギャンと呼ばれた男」を読む

彫刻家で詩人の土方久功は、膨大な日記を残しており、現在それは国立民族博物館に所蔵されています。
この本は、その内容を読み解いて、まさに「正伝」として書かれたものです。

私もこの日記をいつかは読んでみたいと思っていますが、いつのことになるやら...

さて、本書では土方の南洋生活を中心に書かれているわけですが、やっぱり私の気になるところは、土方が私の地元岐阜県に疎開してからのエピソードです。
昭和19年から23年まで、岐阜県可児市の土田(当時は土田村)に疎開した土方ですが、体調を崩し思うような生活はできなかったようですね。

それでもいくつか当地の詩を残していまして、抜粋ですが
『...夏ノ終ワリカラ秋ニカケルト 大田ノ町ノ裏手ノ 山ノ上ノ果樹園二 梨ガ 葡萄ガ 富有柿ガミノリ...」などとあります。

土方が住んでいたのは可児市で、木曽川を挟んで向かい側に美濃加茂市の太田町がありました、昭和2年にできた大田橋を渡り、太田に来ることができたようです。
「山ノ上」とは太田町の北にある山之上町を指していると思われ、現在でも果樹が多く栽培されています。中でも有名なのが「堂上蜂屋柿」で、土方も「富有柿」と品種で呼んでいます。

昭和21年には、岡本一平が西白川村から加茂郡古井町(現美濃加茂市古井町)に引っ越してきます。亡くなったのが23年なので、土方の土田時代と重なりますが、二人に交流は無かったようです。

それと、現在土田にある立派な病院「地域医療機能推進機構可児とうのう病院」が土方夫妻が建てた診療所兼住宅だった病院が発展したものかどうか確認取れていません。
>昭和21年5月「健康保険土田病院」として開設
とサイトにあるので建てられた時期は合うのですが。


さて、画像は土方久功の1955年の個展葉書です。
土方の3回目の個展にあたり、木彫レリーフを20数点、ブロンズ4点とパラオ時代の絵画を展示したようです。
送り先は「中村博三郎」宛てで、彼は「明治の彫塑」の著者である近代彫刻の研究者ですね。

2017年6月4日日曜日

亀山上皇銅像 儀損金の領収書 

面白い資料が手に入りました。
元寇記念碑設立の為の儀損金の領収書です。
元寇記念碑は、現在でも福岡市に建っています亀山上皇の銅像を指します。
上皇の絵葉書を持っているかと探してみましたが見当たらず。
しょうがないので、Wkiの画像

この像は、福岡県警務部長だった湯地丈雄氏等によって明治37(1904)年に建立されます。
実は亀山上皇のある東公園近くに、竹内久一作の日蓮上人像も建っています。
企画は亀山上皇像の方が先でしたが、建立は日蓮上人像の方が僅差で少し早いのですよね。
その理由に日蓮上人像のバックに、東京美術学校と(プライドの高い)岡倉天心がいたからではないでしょうか?
そして、もう一つ理由があるのですが、それは後に書きます。

銅像の原型は山崎朝雲。
その原型木造も現存します。
以前、山崎朝雲による「敵国降伏」の書を紹介しました。
「敵国降伏」は亀山上皇の言であり、福岡市の銅像の台座にも刻まれています。
その繋がりで、この書があったのかもしれません。

さて、上記の領収書ですが、明治29年と書かれています。
15銭を儀損金として支払ったようです。
現在に換算すると3000円くらいのようです。まぁ、義理で出せる金額ってとこでしょうか。
この儀損金、最終的にはいくら集まったのでしょうね。
とはいえ、この集金の一部は使われなかったと思われます。
それが先に書きました、亀山上皇像の建立が遅れた理由の一つで、実はこの集まった儀損金は横流しされたようなのです。
下の記事を参考にさせて頂きました。

明治25(1892)年、時の松方内閣は解散を行い、第2回衆議院議員選挙が行われます。
その時、内務省と地方の知事によって選挙干渉が大々的に行われ、警察の動員によって死者を出す結果となります。
安場保和知事であった福岡県でも2名の死者が出て、その結果、安場知事は辞任することになります。

この時、元弘記念碑のために集められた金が、選挙干渉の為の資金として使用されたと言います。
そして、上皇像設立企画は頓挫、日蓮上人像のバーターとして上皇像の建立が再企画されるまで時間がかかったというわけです。
藩閥政治下にとって、野党は、元寇と同じだったってわけでしょうか。
この銅像の最初期の図案は、元寇に対峙する騎馬像だったと言います。
すべての儀損金が無事であれば、現在以上に大きな銅像が建っていたかもしれません。

それと、この領収書には手紙が同封されていたのですが...まったく読めません...
もし、先に書きました流用の件について何か書かれているとすれば面白いのですが...

2017年5月30日火曜日

まだ見ぬメダルたち その2

日本の彫刻家の中で、初めて自身の作品としてのメダル制作を行った作家は誰か。
私はそれを新海竹太郎だと考えています。

新海と言えば、1907(明治40)年の第一回文展出品作「ゆあみ」が有名ですが、他にも市井の風俗を描いた「浮世彫刻」など、幅広い仕事をしています。
新海竹太郎は日本彫塑の祖と言えるでしょう。

そんな彼のメダルとは、欧州留学より帰朝後、1902(明治35)年の太平洋画会展に出品された「少女浮彫凹型」と「婦人メダル用原型」が最初期のものだと思われます。

・少女浮彫凹型(少女像) 東京芸術大学大学美術館蔵


・婦人メダル用原型(裸女?) 東京芸術大学大学美術館蔵

これら原型を使ったメダルを、私はまだ見た事がありません。
当時においては、こういった裸婦像を顕彰品のモチーフに用いることは難しいことだったかもしれませんね。
しかし、それを提示する所に、当時の新進気鋭彫刻家、新海竹太郎の真骨頂があると思います。
彼が欧州留学中に学んだアール・ヌーヴォーは、工芸品を美術にしました。それを日本に伝えることで、美術と日用品とを結ぶラインが日本にも生まれます。
それによって、それまで彫刻家の片手間仕事だと思われていた雑品制作が、美の作品としてに昇華することになります。
新海竹太郎のこの分野における業績は大きなものだと思います。

2017年5月29日月曜日

黒岩淡哉 作 ペスタロッチ像



黒岩淡哉による「ペスタロッチ」半身像です。
黒岩淡哉は、明治22(1889)年に東京美術学校に彫刻科の第一期生として入学。卒業後は東京美術学校の彫刻科助手を勤め、後に関西に移り、当地で彫刻美術の啓蒙に勤めます。

そんな近代彫刻におけるレジェンドの一人なのですが、東京中心の近代彫刻史には名前が出てこない作家です。
このブログでは2回ほど紹介しています。

そして、この「ペスタロッチ」像ですが、広島文理科大学(現広島大学の母体となった)教育学研究所において、卒業生に渡された記念品だったようです。
ペスタロッチは、スイスの教育学者です。
彼の教育理論が日本に広まったのは、広島文理科大学の教授であり、広島大学の名誉教授となった長田新によって、その研究がなされたことによります。
現在でも、優秀な教育研究者に贈られるペスタロッチー教育賞が、同校にて授与されるそうです。

「ペスタロッチ」像の裏側には「広島八木トンボ堂謹製」の文字があります。
八木トンボ堂は、記念品制作の会社だったようですね。
広島の記念絵葉書などを制作していたようです。

右側には、贈られた卒業生の名前と、昭和8年3月7日、第二回卒業生に贈られたことが刻まれています。

この像を手に取ると、これを受け取っただろう熱い若者の想いが伝わってくるような気になります。
なんだか、ちょっと元気になります。

2017年5月28日日曜日

Intermission 銅像の展示をしてみたい

最近は、このブログの更新が疎かになっていますが、ダレていたわけではありませんよ。
5月の頭から、人に会ったり準備したりと、結構慌しく過ごしています。
また、その結果のご報告を致しますので、それまで少々お待ちください。

さて、話は変わりますが、表題に書いたように「銅像の展示をしてみたい」などと最近考えています。
ただ単に銅像を並べるだけでなく、その作品を触れるようにしたい。
ですのでレプリカでも良いのです。
歴史上の偉人の銅像、または上野の西郷像のような有名な銅像...
そういった像に触れることのできる展示がしてみたい。

触るのことのできる彫刻作品展というのは、無いわけではありません。
そういった展示は、視覚障害者に対し美術を楽しんでもらおうと言った意図で行われているものもあるようです。
私が妄想する展示も、そういった方々に対し、例えば「坂本竜馬」像とか「楠木正成」像とか名前でしかイメージできない人物の「像」に触れてもらおうといったものです。

私のコレクションからも、レリーフの像なんかのレプリカを用意して、それを触っていただければと思います。

いかがでしょうか?
こういった企画も暖めていければと思い、ここに記しました。

2017年4月23日日曜日

銅像受難の現代


昨今、銅像問題で色々と話題が絶えません。
例えば、韓国の(所謂)慰安婦像。
そして最近では台湾において、日本人技師の八田與一像の首が切られるという事件がありました。
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/world/article/322370

さらにその後、その報復かのように蒋介石の像が破壊されています。
http://www.asahi.com/articles/ASK4Q519YK4QUHBI010.html

銅像と言うノスタルジックな芸術が、政治的な最前線に持ち出されています。
像の首を切るというアニミズムで、まったくの前近代的な事が行われていることも同様です。
逆に言えば、(銅)像の力というモノは、人がヒトである限り持ち得るものなのかもしれません。
公共の場における銅像の影響力は、この細分化された現代世界に追いて、これからも厄介な問題としてあり続けるでしょう。
誰かの意思が象徴され照射されるモノとして、銅像の受難は続きそうです。

さて、最初にあげた2枚の絵葉書の画像は、1910年に施工され、神戸市大倉山公園内に設置された、小倉惣次郎作の「伊藤博文」像です。
実は、この画像の像が建てられる前に、同様の像が神戸の別の地(楠公社境内)に建てられています。
その銅像もまた政治的な意図で破壊されます。
その後、場所を金星台に変え、再建されたのが画像の銅像なのです。

伊藤博文と言えば、韓国にとっては日本の国粋主義者として見られているかと思われますが、明治後期の日本における立場は、そういうものではありませんでした。
彼の推進した日露戦争の講和条約に対し、日本国民は屈辱条約と感じ、1905年には暴動が起き、内相官舎襲撃や、派出所の焼討ち等が起こります。
神戸においては、楠公社境内に設置されていた伊藤博文銅像が引き倒され、市中引廻しとなります。
銅像引き倒しの際には「手伝へ手伝へ国民なら手伝わぬかッ」と怒鳴り立てた者があったとか。

銅像が世に出てたこの頃から、すでに現代と同様の事件が、銅像の身に起きているのですね。

戦後も同様の事件が起きます。
あの、本郷新作「わだつみ」像破壊事件ですね。
1969年5月立命館大学に置かれていた像を全共闘系の学生が破壊し、首に縄をつけて引きずり回すという事件が起きます。
戦前・中派にとっては反戦のシンボルであったわだつみ像は、当時の学生にとって社会の、大学権力のシンボルとなっていたのです。
http://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=125
立命館史資料センターの、この資料は面白い!
「(像を倒して)得意げなトロツキスト(トロツキー主義者)」とあります。
トロツキストは、左派内で批判的な相手に対し用いる言葉のようなので、特定はできないようですが、当事者はたぶんまだご存命ですよね~~

レーニン像の時もフセイン像の時もそう。右も左もどんな政治的な立場であれ、人は同じことを繰り返すのでしょう。

2017年4月22日土曜日

畑正吉 渡仏時代の写真

彫刻家、畑正吉は1907(明治40)年から3年の間、農商務省海外実業練習生として渡仏します。
当時の写真がご遺族より東京文化財研究所に寄贈され、公開されたようです。
http://www.tobunken.go.jp/materials/hatapict/242722.html

畑の他には藤川勇造や安井曾太郎の顔が見られます。
特に注目なのは、「菅原精造」と「菊地鋳太郎」です。

菊地鋳太郎は、1859(安政6)年の江戸に生まれ、1876(明治9)年に工部美術学校の彫刻学科に入学、ヴィンチェンツォ・ラグーザの指導を受けます。
工部美術学校は後に廃校となりますが、彼は日本塑像家最古参の一人です。
http://www.tobunken.go.jp/materials/hata_18591945

>1910年には自らヨーロッパを巡遊して西洋美術の石膏像を購入し、事業の拡大を図った。
とあるように、美術教育の基礎に関わった人物のようです。

菅原精造郎ですが、この人は凄いですね。
1884(明治17)年山形県生まれ、東京美術学校の漆工科撰科に入学。
1905年渡仏し、生涯をパリ中心に過ごす。
アイリーン・グレイとの知遇を得、彼女と共同制作した「夜の魔術師」をサロンに初出品、評判を呼ぶび、フランスの地で漆芸家として活躍。

ナチスの迫る1937年のパリ郊外ロスチャイルドのシャンティイ別荘で肝臓癌の為、54歳で逝去したそうですが、ロスチャイルドの別荘ってなんなの!って感じですね。
シャンティイ別荘とは、古城ホテルとして名高いシャトー・ドゥ・モンヴィラルジャンヌだろうと思われます。
http://www.chateaudemontvillargenne.com/

その作風は、アール・デコであったと言いますが、これはまさに抽象彫刻ですね。
http://hibiyal.jp/data/card.html?s=1&cno=2938
日本人に、こういった人物がいたのですね。
注目です!!

2017年4月16日日曜日

芸術の終末と宗教

今日は、犬山市の岩田洗心館へ「芸術の終末」について、三頭谷さんのお話を拝聴してきました。

お話の中にあった、日本の芸術への信仰が昭和初期にピークを迎えたという説。
私もそう思います。
そして、その信仰が現代では形を変えており、その結果「芸術」という分野が衰退していくだろうとのことでした。

そこで思うのは、現代における新興宗教の衰退です。
宗教学者の島田裕巳が言うには、『生長の家が衰退し、PL教団も衰退している。天理教も立正佼成会も、そして霊友会も信者の数は減っている。しかも、衰退の勢いはかなり激しい。』とのこと
http://online.sbcr.jp/2015/12/004150_2.html

この衰退の推移と、日本芸術の推移とは同調しているのではないか。
私はそう考えます。
というより、日本の芸術とは、新興宗教の一分野だったのではないかとさえ思います。

日本の新興宗教史をまとめると
1.明治初期の内村鑑三を代表とするキリスト教の広がり
2.明治後期から大正にかけての新宗教、大本や天理教やの組織化
3.昭和10年の大本事件に見られる国家による弾圧
4.戦時下の宗教の一元化
5.戦後の創価学会等の拡大
6.80年代の新興宗教の世界への進出
7.昭和の終わりとオウム真理教事件
8.現代、新興宗教の衰退
簡単ですが、こんな流れかと思います。

これに日本の日本彫刻の状況を当てはめてみれば、例えば1.なら、キリスト教信者でもあった近代彫刻の祖、荻原守衛がその時代を代表し、2.ならば岡田式静座法を信じた中原悌二郎ら、荻原守衛の次世代作家の広がり。
3.なら、芸術信仰のピークを体現する橋本平八、堀江尚志、木村五郎ら若い彫刻家の死。
4.では、戦争彫刻。
5~6.では、1949年からの読売アンパン時代からの公共彫刻乱立期。
7.ポストモダン時代...
ちょっとざっくりし過ぎてるかもしれませんが、こうして見れば、新興宗教の発展・衰退と芸術のそれとは同じような流れであったと言えると思います。

そう考えれば、「芸術の終末」を芸術のみの分野で考えるわけにはいかないでしょう。
そして、新宗教が今後どうなるかを考えることができれば、芸術もまたどうなっていくかの予想ができるかもしれません。

2017年4月12日水曜日

まだ見ぬメダルたち

戦前彫刻家のメダルをコレクションし始めて、もう6年目。
しかし、未だ出会えないメダルはまだまだあります。

一番会いたいのは、高村光太郎のメダル。
高村光太郎は「大町桂月」のメダルや、波書店の店章となった「種まく人」のメダルなどを製作しています。
この世にいったい幾つ現存しているでしょう?
どこかで出会える日を楽しみにしています。

朝倉文夫の昭和17年に出された著書「美の成果」には、彼のメダル製作について書かれています。
『昭和の百人一首と百人一句とを募集したから、その当選者に贈るメダルの原型を作ってくれと、廣田君が報知新聞社の依頼を伝えてきた』
『「歌の聖と言えば人麿、俳句の聖と言えば芭蕉、それを1個のメダルの場面に組み立ててみるか」』
『歌の聖と俳句の聖とを対座させて、天上天下、宇宙万象、和歌と俳句の世界としてしまった』
『一個のメダルの中に一千年の隔たりのある二人の聖をこうしたえにしの糸でつないだのであった』

この人麿と芭蕉のメダルも未見...

まだまだ旅は終わらないッス!

2017年4月2日日曜日

高山公園二於ケル軍神廣瀬中佐ノ銅像 絵葉書


かつて高山公園(現高山城跡城山公園)にあった廣瀬中佐の銅像です。
「杉野! 杉野はいずこ?」と究極超人あ~るで鳥坂先輩が叫んでましたが、私がこれを読んでいた当時は中学生、元ネタなんてわかりませんでしたよ。

さて、そんな廣瀬中佐こと廣瀬武夫は、日露戦争の英雄です。
大分出身の彼は、飛騨高山にて子供の時期を過ごします。
この銅像は、その小学校の同窓生によって明治38年に建てられたものです。
明治40年には東京神田の万世橋にも廣瀬及び杉野両名の銅像が建てられますが、これを制作したのは彫刻家渡辺長男。
そして、それより先に制作された、この高山の銅像もまた渡辺長男によるものです。
渡辺長男は廣瀬中佐と同じ大分の出身。それゆえに白羽の矢が立ったと思われます。

この廣瀬中佐の銅像は、昭和18年の金属回収で撤去されます。
その時、同じく回収されたのが、高山市東国民学校にあった幼年期の姿を描いた銅像で、作者は地元の医者にして彫塑家の中村清雄。

回収された公園内の銅像は、実は現存しています。
昭和42年に復元されたのですね。
しかし、よく見ると、この復元された銅像と、当時のものとでは形が異なるようです。
当時の銅像をもう一度見てみましょう。
たしかに台座は当時と同様のようです。
廣瀬中佐の姿は、勲章を身につけた正装に、特徴的なのは立派な顎ひげ。
万世橋の銅像には、こんな顎ひげはありません。
どうやら同窓生たちに求められ渡辺長男が、その姿をさらに立派に盛ったのではないかと思われます。
この勲章たちも死後に得たものかもしれません。
この銅像の原型が無いために、現在の銅像の姿で作り直されたのでしょう。

死者を立派に描きなおすという思想は、直接死者に行う死化粧や、死後の結婚を描いた山形県の「ムサカリ絵馬」、たぬき寺の軍人像の姿など、死者との繋がりが深ければ深いほど行われたものだと思います。
遺族にとってはできるだけ立派な姿でいて欲しい。
しかし、明治期以降に「リアリズム(写実主義、自然主義)」という考えが浸透していく中で、銅像制作を行う彫刻家はその均等を図るようになっていったのではないでしょうか。

朝倉文夫は「銅像に聴く」としたエッセイに中でこう述べています。
『故人に対する家族の印象というものは、案外あてにならぬものだ。一つの像を廻ってその、未亡人と子供とでは印象が違う。又兄弟でも。女と男で異なり、長男と末っ子で違う。』
銅像制作中にあれやこれや言う未亡人に対し
『「奥さんはご主人の像が動けばいいでしょう」「そうです」「動いた上に、お話が出来たら猶いいでしょう、併し彫刻ではそうは行きませんよ」などと、ある程度で止をささぬと制作が出来ない事すらある。』

つまり、死者と交わりがあるが故に、その像の姿は変わっていくと言うことです。
この戦前の廣瀬中佐の銅像もまた、単なるモニュメントではなく、死者としての廣瀬武夫を描いた物であると言えます。

死者とは、現在の私たちに繋がる者です。
廣瀬武夫と私たちは繋がっている。
そいった思いに馳せるためにも、当時作られた銅像の姿で、現在の高山市に建っていればと思ってしまいます。

2017年3月29日水曜日

日名子実三 作 日米学生交歓陸上競技大会 メダル 



久しぶりにメダルの紹介です。
日名子実三による「日米学生交歓陸上競技大会」メダル。
「日米学生交歓陸上競技大会」は皇紀2594年(1934(昭和9)年)に行われます。

以前同年に行われた「日米国際陸上競技大会」を紹介しましたが、この競技大会と同企画で行われたものだと思われます。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2014/12/blog-post_31.html

一方のメダルは陽咸二、こちらは日名子と構造社作家で押さえてますね。
ただし、日名子の「日米学生交歓陸上競技大会」は草薙剣(くさなぎのつるぎ)を振る日本武尊(ヤマトタケル)と、より日本をイメージさせるものです。
「日米国際陸上競技大会」の方が抑制されており、メダル製作においても政治的な判断があったと思われます。

メダルに描かれた草薙剣ですが、見たところ片手で持つ片刃の剣のようです。
当時においても現物を知っている者はなく、想像で描いた物だと思いますが、逆に片刃の由来が知りたいところです。
振り上げた体躯も面白い。芝居かかってますね。
こういう芝居的な立体の彫刻というものは、日名子であっても制作していません。「彫刻」のあり方に切り分けがあったのだと思います。
文脈が異なると言うことでしょう。
そいうえば、戦時下の彫刻においても刀を振り上げた彫刻というものを見たことが無いような。少し調べてみよう。

さて、この大会に出場した日米の若者たちは、その数年後に兵隊となった者もいたでしょう。
グランドで競い合った者同士が、次は殺しあわなくてはならなくなるとは、時代の不幸を思います。

2017年3月6日月曜日

Intermission 山下清と昭和の美術―「裸の大将」の神話を超えて

服部正、藤原 貞朗著『山下清と昭和の美術―「裸の大将」の神話を超えて』を読む。
私の先生である三頭谷さんをDisっているところが面白い!
確かに『宿命の画天使たち 山下清・沼祐一』を読んで、こういう本にしては感情的だなぁとは思いましたが。

この『山下清と昭和の美術』に書かれていることですが、山下清が戦後、特に式場隆三郎が亡くなる以降、一家を支える画家、またはデザイナー、そして芸能人として成り立つ姿を、美術界も福祉の側からも無視したと言います。
芸能人となった山下を美術界は受け入れなかった。「美術」はそれのみの純粋性を嗜好するからです。
しかし、彼の姿を福祉から見れば、立派な成果です。
彼は家族の援助あれど、彼の力で食っていけるまでになった。
けれど、「美術」に否定された彼を、福祉の結果として肯定すれば、他の障がい者作家の作品たちの「美術」としての評価をも失いかねません。
「美術」として評価されるから、彼ら障がい者の作品はすばらしい...といった図式が崩されてしまいます。
ゆえに福祉の側からも山下清を無視します。

福祉として成果が上がれば美術としての評価が下がる。
こういうジレンマをアール・ブリュットは抱えているわけですね。


ここにどんな精神疾患をも治す薬がエヌ氏によって発見された。
この薬を飲めば、どんな心と脳の病気をも完治する。
ノーベル賞候補と言われたエヌ氏だが、思いもしなかったところから非難を浴びた。
彼の薬によって、およそアール・ブリュットと呼ばれた作家達が描けなくなったのだ。
そこに残ったのは、素人の絵を描くただの人だった…

こういう場合、私たちは何処に価値を置くもののでしょう?


2017年2月28日火曜日

Intermission 何故、障がい者のアートを「狂人故に美しい」と言ってはいけないのか?

先日、NHKのETV特集「人知れず 表現し続ける者たち」を見ました。
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/20/2259554/
東京都はトーキョーワンダーサイト渋谷を再整備してアール・ブリュット美術館にするみたいですね。

2020年のパラリンピックまで、日本のアールブリュットを御輿とするイベントは続きそうです。

そんなアール・ブリュット(生の美術)について、我々はそれをどう見ているのか検証してみたいと思います。
アール・ブリュットは、精神的な傷害を持つ人を対象とはしていません。しかし、私たちが鑑賞の対象として見る時、それを意識していることは確かだと言えます。それを含め以下のような図を作成しました。
この中心には、作品そのものを配置します。作品自体は価値判断をもちません。ニュートラルなものです。
それを他者が鑑賞して初めて「価値」が生まれます。その時、どのような「価値」のベクトルが働くのか...それを図で示します。

この図では作品を「障がい者」のものと捉えるのか、それとも「狂人」のものと捉えるのか。そしてその作品が「健康」であるか、そうでないのかを軸とし、中心から、端に向うほどに「美」としての意識が高まることを示します。

まずは、アール・ブリュットの歴史から。
アール・ブリュットが世に問われるきっかけとなったハンス・プリンツホルン著「精神病患者の創造」が1922年に出版され、欧州の芸術家、シュルレアリズムの作家やアール・ブリュットに深く関わっていくデビュフェたちに強く影響を与えます。

シュルレアリズムの作家であるマックス・エルンストは自伝においてこう述べます。
『ある建物に、驚くべき彫刻と絵画のコレクションがあった。それは、このおぞましい建物に監禁されている患者が作ったものだった。特に注意を引かれたのは、彼がパンをこねて作った人物像だった。』『それらの作品に深い感銘を受けた。そこに天才的なひらめきのようなものを感じたものだった。そして、狂気と境界線上のあいまいで危険な探求を進めることになった。』

彼らは狂気を、この世界を超える、またはその境界上にあるものとして評価し、障がいを持つ者の生み出す作品を、その理解の上で「美」とします。
しかし現在、私たちは障がい者の美術を「狂人」のものとは捉えません。
その理由は、「狂人」が「正常」との対義語であり、差別であるとの認識があるからです。
私たちは「狂人」と「正常」は地続きであり、ヒューマニズム、人権等の視点からそれを「いけないこと」と判断します。

しかし、かつてシュルレアリズムの作家たちは、「狂人」の「不健康」な作品を「美」としました。
それは、図での「C」の位置で示されます。

これは障がい者を「正常」と区別する視線です。
先に書きましたように、その視線は現在では否定されます。
もとい、当時においても批判はありました。
現在においては、こうした批判の下、「C」における美意識そのものを捨て去ることになったと言えます。
たしかに、今でも背徳美、退廃美は存在します。ただ、それを障がい者に向けることを行わなくなったということです。
例えば、最近兵庫県立美術館で行われた『アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国』展。
この精神病院に収納されたという作家の作品の展示に、「狂人だから美しい」という言葉はありません。
サイトには『主人公の少年ドゥフィ(アドルフの愛称)が、家族とともに世界をめぐる旅行記である。ここではヴェルフリの悲惨な子供時代がわくわくするような物語へと置き換えられている。』だの
『ヴェルフリ自身は「肖像画」と呼んだこれらのドローイングを色鉛筆やタバコと交換し、さらに精神病院の職員や彼の創作を称賛しに訪れる人々に売っていた。』だのポジティブな言葉が並びます。

現在において、狂人の美術は、上記の図での「B」に配置されます。
つまり、「健康(ポジティブ)」な物であると。
この「B」範囲が美術の領域と言えます。
ここには他に出口王仁三郎の陶芸や書など、宗教家の作品。または決して「障がい者」側には近寄らない草間彌生なども入ります。

さて、次に「A」の領域。
これは、現在でもある、所謂「障がい者のアート」と言われているモノです。
ここには「福祉」という価値観が関わってきます。
つまり、教育による向上や、社会的援助といった「目的」を持つわけです。
それは、美以外の「目的」を否定する美術の領域とは相反します。
この領域におけるアール・ブリュットは「福祉」という価値観を背負うことで、結果矛盾を抱えます。
そのため、戦前において山下清の作品が、当時の芸術家たちの一部から否定されたわけです。
「A」と「B」の領域には深い溝が刻まれています。

私見ですが、芸術家というものは道化だと思っています。
自分の表現という排泄物を世に出し、嘲笑され、奇異の目で見られるのが彼らです。
道化故に、王様(美)の近くでおどけ回る事ができ、王様(美)という権力をかさに言いたいことを言える者。
障がい者は、こういったことに自覚を持て無い人もあるでしょう。
そして、福祉に関わるものは「嘲笑され、奇異の目で見られる」ことを許しません。
山下清が戦後に芸人となったことを非難する人達のように、そこには福祉だけでなく、美術の側からも障がい者の美術がただ「美」による価値で判断されることを許さないのです。
「A」の領域にあるものは、美でありながら美を否定される存在なのです。
最後に「D」の領域、「障がい者」でありながら「不健康」であることを価値とすること。
実は、この領域の作品はを私たちは見ることができません。
また、そういった作品があっても、それを口に出すことはできません。
それは「福祉」としての価値を否定しなければならないからです。
つまり、「障害者」の「D」領域の作品は、「福祉」の手で「A」の価値へと引き上げられているのではないでしょうか。

見えていても、見えていないとふるまうことを強制される作品、それが「D」の領域と言えるでしょう。

このように、私たちは一つの作品を、その立場、意識、美意識によって、それぞれに、またはその視点の領域を越え往き来しながら鑑賞します。
さらに、その意識世界には、他者(「福祉」という価値)の介入がなされます。
その結果私たちは決して「狂人故に美しい」「不健康な障がい者は面白い」とは言えないのですね。
価値の多様性は制限されます。
そんな世界が、アール・ブリュットの美的世界であるのですね。

追記
上記のモデルは、児童画にもあてはめることができます。
その時、「福祉」に変わるものは「教育」となります。
私たちは児童画を見て「不健康な児童は面白い」とは言えない訳です。

2017年2月24日金曜日

戦時下の痕跡本

敗戦の年、昭和20年1月3日に発行された「美術」です。
当時は多くの美術雑誌が廃刊か統合され、この「美術」のみとなります。
表紙の熱帯魚たちも、当時の読者からしたら日本兵が戦っている南洋を思い出させるイメージであったでしょう。


その中に「時評」として、「軍事美術研究会」についての記事があります。
内容は、こういった組織が美術家たちの仕事の土台となり、時局に必要な美術を提供しなければならない...といったことが書かれています。
その年の1月中旬には、この「軍事美術研究会」の講演会が行われる予定があり、その予告記事が載っています。
講演内容は、
1.軍事知識より見たる作戦記録画 -山内一郎大尉
2.構図上より見たる作戦記録画  -柳亮
3.戦争画の名作研究       -森口多里、富永惣一郎、田中一松

この研究会も興味深いですが、それ以上に思うのは、前年から激しくなった米軍の空襲下でもこうした「美術」に勤しむものなのだということです。
その2ヵ月後、3月10日、あの東京大空襲が起きます。


今日紹介するのは、こうした美術雑誌の記事ではありません。
実は、その記事の欄外に読者が落書したろう跡が残っているのを見つけました。
ちょっと読みづらいので、そのちりばめられた文字の近くにピンクで書き直してみましたが、おわかりでしょうか?

←右から左へ

←右から左へ

左から右へ→

左から右へ→

まとめて読めば「ウチデハヒナンジュンビヲススメテヰ(イ)ル ホンドジョウリクニソナエテ」となります。
『家では避難準備を進めている。(米軍の)本土上陸に備えて』ということでしょう。

空襲の下、美術家たちが「美術」に精を出している時、その読者は美術雑誌を手にしつつも、生きるか死ぬかの準備を行っているのですね。

日常の延長上に生死がある。
これが戦争ってものなんですよね。

2017年2月18日土曜日

まだ見ぬ股間若衆


股間若衆、所謂日本の「裸体男性像」について、戦前から今日までの作品群を眺めてみると思うことがあります。
それは、「裸体男性像」はモデル的な立ち姿が多く、女性像にあるような髪を梳かす仕草、寝姿等生活の中での状況を描いた作品が少ないということです。
裸体でのスポーツや労働の姿はありますが、この「生活の中」での姿は皆無といっていいのではないでしょうか?
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/11/blog-post_21.html
特に、「正座」像なんて見たことがありません。
もちろん「正座」姿は、着物などの着姿での坐像は多くあります。
けれど裸の男が正座した姿の彫刻を、私はまだお目にかかったことがありません。
正座した時にペニスをどう処理するのか...興味は湧きます。

原因としては、「裸体男性像」自体が少なく、バリエーションも多くないことが挙げられます。
また、裸体での「生活の中」の姿というのは、女性像においても違和感があるものですが、それは西洋的な文脈によって許されており、ただ男性彫刻家が自身の性を描く時の違和感には抗えなかったということもあるでしょう。
さらに、裸の男の風呂上りや寝姿に、(現代ならともかく)当時は需要がなかったこともあるでしょう。


上記の写真は昭和19年の美術雑誌「美術」に掲載されたナチス独逸の展覧会におけるヘルマン・ツェットリッツァの「裸体男性像」です。
これは横たわる姿ですね。こういう姿も見ません。

ナチスの「裸体男性像」と比べてみるとよくわかるのですが、独逸では男性の裸体、特に筋肉に美を見出しているのですよね。
これが日本の「裸体男性像」にはあまりない。
その代わり、上にある朝倉文夫の像や本郷新の「わだつみ像」の様に、若い肉体に美を見るというのはありますね。
三島由紀夫とか薔薇族的な美意識よりも、少年愛、陰間茶屋的なバンコランな美意識であれば、需要があったということでしょうね。

2017年2月14日火曜日

大正15年 独逸現代美術展覧会 カタログ

大正15(1926)年に行われた独逸現代美術展覧会のカタログを手に入れました。
以前から何度か話題にしていました日本での表現主義受容。
これを知る上では、是非見ておきたかったカタログです。

出品彫刻家(日本語名は原文のまま )
ルドルフ・ベーリング Rudolf Belling

エリザベト・セザール Elisabeth Caesar
ルドウヒ・カウエル Ludwig Cauer
フリツ・クラウス Fritz Claus
ルドウヒ・ダヂヲ Ludwig Dasio 
エルネスト・デ・フィヲリイ Ernest De Fiori
ヘルベルト・ガルベエ HerBert Garbe

ヘルマン・ガイベル Hermann Geibel
ルドウイヒ・キイス Ludwig Gies(メダルを出品)
ヘルマン・ハアン Hermann Hahn
ビリブ・ハルド Philipp Harth
ヲイゲン・ホフマン Engen Hoffmann
ハラルド・イゼンスダイン Harald Isenstein(メダルを出品)

カアル・クナベエ Karl Knappe(メダルを出品)
プリツ・ケレ Fritz Koelle 

ゲチルグ・コルベ  Georg Kolbe

ゲルハルド・マルケ Gerhard Marke
ゲオルグ・ミユラー Georg Mneller
エミー・レデル Emmy Roeder
エドウイン・シヤルフ Edwin Scharff

ケーテ・シヨイリヒ Kaete Scheurich
チエ・エム・シユライネル C.M.Schreiner
レエネ・シンテニス Renee Sintenis

ハンス・デビイヒ Hans Teppich

アルベルト・ウイレー Albert Wille
パウル・ツアイレル Paul Zeiler
ウイリー・チウゲル Willy Znegel

カタログを抜粋
 



★マークのある作家は、1937年の退廃美術展に出品され烙印を押された作家たちです。
作風の違いによって、生の明暗が分かれてしまった悲劇ですね。
この独逸現代美術展覧会が行われた1926年は、ヒトラーの党内独裁権がほぼ確立したハンベルク会議が行われた年です。
このタイミングで無ければ、このように独逸の主要な彫刻家の作品が見られることは無かったでしょう。
ただ気になるのは、この作家の中に当時のドイツで人気のあった彫刻家エルンスト・バルラハの名前が無いことです。
当時、木彫作品の輸送は困難だったからかもしれませんね。
ここで、バルラハの木彫を鑑賞する機会が日本にあったなら、もしかしたら日本彫刻史が変わったかもしれません。

表現主義作家では、エドウイン・シヤルフ Edwin Scharffの出品があります。
彼の紹介には、『1887年ミュンヘン美術工芸学校及美術学校を卒業し、絵画をも良くし各国に学びて、表現派となり、その派に重きをなす。』とあり、「表現派」という言葉が使われています。
この日本で、彫刻の表現主義に言及した作品を鑑賞できたのは、これが最初だったかもしれません。

また、展示の作品の中には、メダルが複数あります。
メダルが芸術表現の一部とされる欧州にあって、これらも日本への展示品にと選ばれたのでしょう。
ただ、その写真が掲載されてなく、どんな図柄だったのかがわかりません。
もし、その図柄がわかれば、それに影響を受けた日本の作家があったかなど、色々と調べてみたいことも増えるのですが。

それと、このカタログの発行は国民美術協会ですが、編集及び発行は彫刻家の小倉右一郎になっています。
なんでもするなぁ~この人は。
小倉のセレクトだろう写真掲載の作品には、彼の作風とはまったく異なる前衛的な作品が多く含まれており、小倉右一郎の器量の広さを感じさせます。
流石です。
ただ、メダルの写真が無いのは、小倉がメダル作品を商業デザインだと考えていたからかもしれません。
小倉右一郎のメダルって、未だ出会ったことが無いのですよね。

ちなみに、この展覧会に出品された絵画も前衛的なものが多かった。






2017年2月12日日曜日

清水三重三、後藤清一 木芽会

「木芽会(もくがかい)」は、1921(大正10)年に、東京美術学校同級生であった清水三重三や笹野恵三、後藤清一らによって結成された彫刻家グループです。
同年、日本橋高島屋にて第一回展が行われます。



上記の資料は、その第四回展のパンフレットです。
1932(昭和7)年4月に日本橋白木屋にて行われました。
参加作家は、清水三重三、笹野恵三、後藤清一、羽下修三 秦紹世、林良三、長田満(也?)、高須俊彦、飛田朝二(次?)郎。

昭和7年は、清水三重三や後藤清一の参加していました構造社が解散し、新構造社となるゴタゴタした年です。
皆39歳前後で、彫刻家としての仕事に油が乗っていた頃の展覧会だったと思います。

「木芽会」は、昭和9年の第五回までは続けられたようですが、その後はわかりません。
戦時の中で立ち消えていったのでしょうか。
同窓生のこういったグループ展が、10年以上続けられるって凄いことです。
立場やしがらみ等あってなかなか集まることができなくなるものですが、よっぽど気の合う作家仲間だったんでしょうね。
特に後藤清一を構造社に誘ったのは、清水三重三であったわけで、その絆は深かったのでしょう。(誘われなかったら後藤は坊主になるつもりだったとか。)


この銅像は、清水三重三の作品です。
昭和17年に制作されたもののようですが、モデルは不明。
構造社解散後の清水は、挿絵の仕事と共に多くの銅像を制作したそうです。
ただ、彼の作品は東京大空襲によってその多くを失ったということです。
戦前の作品をこうして見られるのは嬉しいですね。

2017年2月5日日曜日

横山潤之助作品 展示情報

これまでも何度か紹介してきました画家「横山潤之助」の情報です。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/search?q=%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E6%BD%A4%E4%B9%8B%E5%8A%A9

本日までですが、各務原市立図書館にて「各務原市所蔵絵画展」が行われており、彼の作品が5点程展示されています。

今回初めて生で鑑賞したのですけど、やっぱりちょっと見は普通の静物画に見えます。
すごく上手い画学生の作品のよう。

けれど、どこかやっぱり奇妙。

今回の展示には能面を描いた作品が出品されているのですが、これが特に異様に感じます。
あえてその違和感を口にするとしたら、その描かれている対象を画家が愛していないことがわかると言う点でしょうか。
対象を見ていない。 視点が通り越している。

こういのって、それこそ画学生的だと言えるのだけど、それを50過ぎの技量ある作家が行うことがオカシイ。

そう考えるとわかることがあります。
今回の展示作品の中で、横山潤之助自身が鏡に映った自分を描いた作品があるのだけど、この作品だけピントが合っているように思えます。

そして、それ故か、この作品は近寄りがたい。

彼自身に、どこまで障がいがあったのかわかりませんが、正規の美術教育を受けた彼は一般に言う「アール・ブリュット(生の芸術)」とは呼べません。
けれど、どこまでも生々しい芸術ではあるのですよね。
それを再確認しました。

2017年2月3日金曜日

日独伊親善図画 記念品

1937年の日独伊防共協定、そして1940年には日独伊三国同盟が締結されます。
その間の1938年に森永製菓によって募集されたのが「日独伊親善図画」。

以前、いくつかの作品の絵葉書を紹介しました。

これらもまた広義において戦争記録画と呼べるでしょう。

今回紹介しますのは、その受賞者に渡されたのだろう記念楯です。



ブロンズ等ではなく焼物なんですよね。
こんなの子供に渡したら、すぐに割っちゃいそうです。
以前に明治神宮体育大会で、メダルに陶磁器が使われたのを紹介しましたが、これもそういった鉄製品を使用しないためのものかもしれません。

裏面には、「昭和13年」「日独伊親善図画」「森永製菓株式会社」の文字。
表には、男の子と女の子と、その真ん中に仏様が立っています。

こういう記念品に宗教色があるというのが面白いです。
運営者に仏教信仰の強い人が参加していたのでしょうか?

上部に木が立っていることからすると、もしかしらたこれは菩提樹で、そうすると真ん中の仏様は、お釈迦様?
ということは、右側の少女は釈迦に乳粥を渡したスジャータでしょうか。
たしかに、右手をちょっと前に出し、何かを薦めているようにも見えます。
では、左の男の子は誰だろう?

どちらによ、この台座や図柄からは日独伊三国同盟の政治色をまったく感じさせませんね。
裏が無ければ、たんなる仏教の浮彫です。
ますます、この図柄を選んだ人に興味がでてくるなぁ~



そして、底には受賞者の名前が。
この方、ご存命なのかな?