2016年12月23日金曜日

畑正吉と東郷平八郎

前々回に書きました朝倉文夫の賞状改め、田中雄一「仁禮景範銅像」胸像1等賞状の件に追記。今回は、他の受賞者についてもまとめてみます。

西郷元帥:
1等 本山白雲

川村大将:
1等 本山白雲
2等 畑正吉(東京美術学校彫刻科 明治39年卒)

仁禮中将:
1等 胸像 田中雄一
   立像 朝倉文夫(東京美術学校彫刻科 明治40年卒)

2等 山本鹿洲
   本山白雲
   毛利教武(東京美術学校彫刻科 明治36年卒)

特別賞?
   西郷元帥:後藤良(東京美術学校彫刻科 明治35年卒)
          海野美盛
          竹内定吉
   仁禮中将:杉村傳

この授賞式については朝倉文夫の回顧録があります。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/12/blog-post.html

そこには東郷平八郎も参加されていたそうで、前年あった日露戦争のヒーローである彼らからの賞状受け取りは、若い彫刻家にとって大変な名誉だったろうと思われます。

そんな東郷平八郎のレリーフをいくつか手がけたのが、川村大将像で2等賞だった畑正吉です。
私の手元にあるレリーフとメダルを紹介いたします。



どちらも昭和に入ってからの作品

畑正吉は、受賞時、東京美術学校の学生でした。
畑正吉もこの授賞式には出席されていたと思われますので、彼が東郷平八郎を間近で見たのは、この時が初めてだったのではないでしょうか。
後に、自身で肖像を制作することになるとは、思っていなかったでしょう。

もしかしたら、若い彼にとっては、まともに顔を拝見することなどできなかったかも。
東郷の肖像の制作にあたり、きっと、この時の事を色々思い返しながら行ったことでしょうね。

2016年12月18日日曜日

日本メダル黎明期

日本メダル黎明期について、簡素にまとめます。

まず、1871年10月15日(明治4年9月2日)、新政府は賞牌(勲章)制度の審議を立法機関である左院に諮問。
1873年(明治6年)3月には細川潤次郎、大給恒ら5名を「メダイユ取調御用」掛に任じ勲章に関する資料収集と調査研究に当たらせた。
結果、1875年(明治8年)4月10日、賞牌欽定の詔を発して賞牌従軍牌制定ノ件(明治8年太政官布告第54号)を公布し勲等と賞牌の制度が定められた。
(Wikiより)

明治8年:賞牌従軍牌図式

明治初期には、彫金師や錺師による一品制作、手彫りの原型でした。
明治36年、東京美術学校、翌年造幣局にフランスからジャン・ピエー色式縮彫機が導入されます。
この機械によって、メダルの複製と量産が可能となりました。
当時の日本人には繊細すぎる機械だったようで、明治43年に、やっと造幣局でも使用されます。

さて、こうやって始まった日本のメダルですが、それに関係するのかどうかわかりませんが、ちょっと面白い資料を偶然手に入れたので、覚えとしてここに記します。

明治44年11月5日、考古学会発行「考古学雑誌」より
「1910年万国銭貨学大会報告 工学博士 甲賀宣政」

この会議では、貨幣のみでなく、賞牌についての論文と研究発表がなされたようです。
いくつか抜粋します。

リチ氏:伊太利復興賞牌
ボスシ氏:ルチリオ、ガチ及び歴史文献として賞牌の切要
ストラー氏:白耳義皇妃シャーロッタ、オーギャスタの賞牌
マーシャル氏:現代賞牌論、賞牌術に於ける肖像及び著作権
ヘルンライト氏:賞牌の技術
ウイエッケ氏:現代極印製造に彫刻機の応用
コワルイツイク氏:最近六十年間独逸賞牌術の発達
ブレンナー氏:合衆国に於ける賞牌進歩の概略
etc...

発表の後には、皇立図書館に集まり賞牌収蔵所を見学したとか。

この報告書には詳しく書かれていませんでしたが、この大会はベルギーで行われたようです。
また、甲賀宣政は、造幣局試金部長だった人物。
1910(明治43)年のこの会議が、造幣局での縮彫機使用を促したのかもしれません。

ただ、中には、『近年賞牌の品質太だ下降せり往時の如き壮厳なるもの典雅なるものを作らんには唯々手彫りに復奮するより他に良法なし』という意見もあったとか。

それと、興味深かったのは彫刻家の著作権についてで、『白耳義に於ては美術家が注文を引受るには普通契約の手続を要す又一方の承諾なくして再び打製することを予防する』
『原型を造幣局に預け置き之を再用するには作者及び注文主双方の承諾を要する』云々

流石本場です。日本の場合はどうだったろう?
明治頃の銅像建設は大きなお金が絡むから契約があったようですが、著作という観点からは現在でも怪しい。
作者及び注文主双方の承諾」ですよ、注文主が独占するわけではないのですね。
最後に『美術家は契約により各自の利益を保護すべしと決議せり』という一文あって、泣けます。


愛知県美術館「日本で洋画、どこまで洋画?」

愛知県美術館へ行ってきました。
今日までですが、コレクション展「日本で洋画、どこまで洋画?」が行われています。
展覧会の感想を書きたいところですが、まずは、それと同時に開催していました「うえからながめる」展がかなり良かったので、これについて。

この展示では、鎌倉時代の春日宮曼荼羅図から、東松照明の写真まで、俯瞰図をテーマにが展示がされていました。

所謂日本画は、古来より俯瞰図で描かれてきました。
絵巻物もそうですが、子供の絵のように対象を記号とし、俯瞰した場所に配置して構成するんですね。
それが、飛行機などの発展により、実際に「空から日本を見てみよう」ができるようになり、その結果、画家は新たな視点を手に入れ、作品に現します。

その古来からの視点と、現代的な視点との差を、須田剋太の「甲子園高校野球」や香月秦男の「サッカー」など各々のちょっと変わった作品の魅力も加わって、面白い展示になっていました。

た・だ・し...愛知の美術館の展示で「俯瞰」をテーマにしているのに、吉田初三郎が無いのは何故だ?
http://www.asocie.jp/oldmap/hatsusaburo.html
彼は、関東大震災後、犬山を拠点に仕事をします。
愛知県美術館は持っていないのかな?

さて、次は「日本で洋画、どこまで洋画?」についてです。
テーマとしては、日本洋画史をその流れの中で見せた...というものなのでしょうが、実際見た感想は、全て時代の「日本の洋画」というものを、それこそ俯瞰で、フラットに、同じ土俵で見せるといった、かなり(良い意味で)凶悪な展示に思えました。

そう見たとき、高橋由一から奈良美智まであった中で、飛び抜けて見えた作品は、やっぱり藤田嗣治でしたね。
日本画にその手法の源があるとしても、この中では唯一無二のオリジナルだと感じます。

また、好みと言う点では、戦前の官展出品作が良かった。
大人っぽいといいますか、金や名誉を含めた現実を背負った人の絵なんですよね。
それが心地よい。
現代作家は、逆に子供っぽく演じているように思いました。
中村彝や神原泰の方が、本当の意味で若々しい。

それと、これは自分でも理由がよくわかっていないのですが、現代に行くにつれてどんどん画面が小さく感じるのです。もちろん、それは作品の大小に関わらず。
個々の作品のセレクトのためなのか、それとも時代性にそういった流れがあるのか。

考えてみると、その要因の一つは、作品がオブジェ化しているからかもしれません。
一つの物体として完結していると言いますか。
オブジェ化によって、作品の技術的な面をフォローできるからかもしれません。
例えば、アールブリュットの作品なんかがそうだと言えますね。
ただ、以前この美術館で見たポロックは大きかったなぁ~

また、展示作品の中に鬼頭鍋三郎の戦争画の習作がありました。
親族による寄贈のようでしたが、これは嬉しいですね。
戦争画は、歴史と繋がっている作品だけに、こういった秀作であっても意味を持つものだと思いますし、たしかに意味を感じました。
ただ、全ての時代の作品をフラットに見ると言う意味では、戦争画の代表がこの作品では少し寂しいものがありますが。
それでも、このように世に出て、美術館などで展示されるのは嬉しいです。
愛知県美術館が、東京国立近代美術館や靖国神社に負けない戦争画館になると良いな~~~~

2016年12月12日月曜日

朝倉文夫が受賞した賞状? 続報

SAKO様
ありがとうございます!
お許しをいただきましたので、前々回投稿しました「朝倉文夫が受賞した賞状? 」について、SAKO様から頂きましたコメントをご紹介いたします。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/12/blog-post.html

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『仁禮景範銅像の原型図案募集は、美校卒業生の田中雄一と在校生の朝倉文夫の2人が一等賞を受賞し、賞金は折半となったことが、当時の校友会月報で報じられています(『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』pp.347-348参照)。

アジア歴史資料センターのホームページで「3海将」で検索するすると、当時の三海将銅像関係の公文書がズラッと出てきますが、これらに眼を通すかぎり、やはり、仁禮銅像原型は、田中雄一と朝倉文夫の共作だと判断できます。

例えば、C11081409500「建設報告、及除幕式辞」の件に、〈故仁禮中将ノ銅像原型製作ハ田中雄一朝倉文夫両氏ニ嘱シ…〉とあります。

ただし、C11081409100「銅像原型製作、鋳造、参名考案等の件(3)」に気になる書類があります。明治40年11月付で、田中雄一が一年間志願兵として入営することになったので、仁禮銅像の制作を朝倉に引き継ぐ、作者は連名とする、とあります。

最初から共作でスタートしたのか、一人で担当していた田中から朝倉へ引き継がれたのか、もう少し史料を読みこむ必要がありますが、仕上げに至るまでの制作後半は、ほとんど朝倉が一人で行なったとみてよさそうです。

なお、田中雄一は戦前はそこそこ活動していた彫刻家です。
『人物と其勢力』という人名事典に略歴が載っています(299コマ)。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946316

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仁禮景範銅像は、田中雄一と朝倉文夫の共作だったようです。
また、制作に関しては朝倉文夫が担ったと言えそうです。

アジア歴史資料センターのホームページは以下
https://www.jacar.go.jp/

早速私も読んでみました!
その中の『銅像原型図案募集及賞金設定等
『応募者は粘土、油土、石膏、木彫等の模型を以って形容姿勢等を示すべし』とありますね。
やっぱり立体図での応募だったのですね。

それと、川村大将像の次席に畑正吉の名前があります。この時彼は24、5歳のはず。
表彰式には出席したのかな?

さて、ここで重要なのは、『銅像の図様は全身立体像のこと』とあることと、『顔面及び頭部には精密の工を要せず。別に写真によりて正確なる顔面または胸像模型を添うべし』
と、全身像と3海将本人に似せた胸像模型の2つを要求していることです。
そして、仁禮中将像の1等に、胸像の部で田中雄一、全身(立像)の部で朝倉文夫の名前があげられています。

 私のコレクションを見てみると…

『…其胸像第一等の選に當りたるを以て…』とあります。
つまりこれは、胸像部門における田中雄一に渡された賞状(のコピー)だと言えるでしょう。

全体の構成では朝倉文夫が、顔などの細部を田中雄一が担当する予定だったのかもしれませんね。
けれど、田中雄一が一年間志願兵として入営することとなったので、朝倉文夫が顔も含め制作したということかも。

それにつけても、朝倉文夫の回顧録に、この銅像の話題が出ても田中雄一の名前は一切出てこない。不思議だ?
朝倉文夫のプライドか、それとも制作の途中で田中雄一と何かあったのか…




2016年12月7日水曜日

安松みゆき著「ナチス・ドイツと<帝国>日本美術」を読む。

1939(昭和14)年、ベルリンにて「伯林日本古美術展覧会(AUSSTELLUNG ALTJAPANISCHER KUNST)」が行われます。
開会式には、あのヒトラーも出席します。

「ナチス・ドイツと<帝国>日本美術」は、その「伯林日本古美術展覧会」開催に至るまでの、ドイツでの日本美術受容史を縦軸に、それに寄り添うように展覧会実現に向けて奔走する東洋美術史家のオットー・キュンメルと、その縦軸に影響を与える横軸として日本とドイツ政府の各々の政策と思慮、そしてイギリスや中国を含めた世界情勢等々を描きます。

これが、面白い!
学術書なんだけど、歴史物語を読んでいるみたい。
映画にしてくれないかな!

近代彫刻史関係で言えば、退廃美術と言われ不幸な最後であったドイツの彫刻家バルラハに関する著書を書き、発禁処分となった批評家カール・ディートリヒ・カールズが、同展の批評を新聞に書いていることですか。

彼は雪舟とゴッホとの近似性を述べているのですが、そこにはゴッホという退廃美術を、「伯林日本古美術展覧会」の展示作品というナチスの政治的に批判できないものに似ていると言うことで、暗にナチスの美術政策批判をしているのだと言います。
骨太だなぁ~

さて、私が以前書いたバルラハに関する投稿です。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2012/12/blog-post_23.html
バルラハのような表現主義彫刻が、戦前においてどこまで日本に影響を与えたか、よくわかりません。
逆にバルラハがどこまで日本の彫刻から影響を受けているかもわかりません。
バルラハは浮世絵から影響を受けたことは知られていますが、彫刻はどうでしょう?
特に能面や狂言面についてどこまで知っていたか気になるところです。

「ナチス・ドイツと<帝国>日本美術」に書かれていることでは、1908年に日本の面が本で紹介され、1925年には「日本の仮面 能と狂言」という本でまとめられたそうです。
ドイツにおいては、当時から能面・狂言面の評価は高く、それが表現主義に影響を与えたと考えることはできないでしょうか??

それにしても、「伯林日本古美術展覧会」に関するナチス寄りの評論が良い味!
重文「大威徳明王像」にある卍が、ハーケンクロイツに似ているからといって、日本人のアーリア人的気質を語るとか...
飛鳥昭雄氏が喜びそうなオカルトだな!

ポケモンでも卍が使われ、差し替える問題がありましたが、この時期からそんな言説あったのね。

さて、横道にそれたので話を戻して...
この本で著者は『戦争へと至るプロセスの中で、美術が国際政治の道筋を示す機能を担わされた』と言います。また、『大戦前夜の国際関係の緊張は、むしろ不可能であったはずの美術展を実現へと導き、その質を高める役割を果たしている』と、この戦争へのプロセスが無ければ、この展覧会は実現しなかったとも言います。

この矛盾、いや矛盾ではなく、これこそがリアルなんだろうと思います。

2016年12月5日月曜日

朝倉文夫が受賞した賞状?

私にとってはお宝ですが、他人にとってはど-でもいいもの。
今日は、そんなものを紹介します。


ファイルに入ったまま撮影しましたので、画像が悪くてスミマセン。
この賞状は、明治39年の海軍中将「仁禮景範」子爵のための銅像図案審査によって1等に与えられたものです。
金150円を受け取ったとありますが、それは現在の金額でおよそ150万円くらいだとか...
大金だ!

その海軍中将「仁禮景範」子爵ですが、明治33年に亡くなっています。
死後、東郷も含めた薩摩藩有志の手によって銅像設立がなされたのでしょう。
賞状には「西郷、川村 仁禮 三将銅像設立」とあるので、仁禮銅像と同じ海軍省に設置された西郷従道、川村純義も同時に公募されていたとわかります。
この銅像達は、全て昭和18年の金属回収令によって回収され、現在はありません。



上は、そんな仁禮銅像の絵葉書です。
絵葉書には、明治42年5月除幕、1丈2尺とあります。
図案が決定してから、3年ほどもかかっているんですね。

さて、問題は、その受賞者「田中雄一」ですが、史実では、「仁禮景範」銅像の作者はあの朝倉文夫ということになっています。
どういうことでしょう?
朝倉文夫の回顧録には、彼が美術学校3年生で23歳の頃、石川光明に誘われ、この公募に出したとあります。
つまり、学生で公募に出す資格の無かった朝倉が、「田中雄一」の名前で応募したのでしょうか?
昭和初期に発行された銅像写真集「偉人の俤」には、仁禮銅像の作者として二人の名前が列記されています。

この入賞によって、朝倉文夫の名前が一躍世に出ることになります。
除幕式では東郷平八郎らが居並び、朝倉は山本権兵衛にシャンパンを注いでもらったとか。

ちなみに西郷従道と川村純義は朝倉の先輩、本山白雲が制作しています。
当時の白雲は、銅像作製では第一等の人物であったわけで、そこに食い込んだ朝倉は、やはり早熟の天才だったのでしょうね。

こういった、楽しいことを色々想像させる賞状ですが、東郷の印がないことからも、実際は写しじゃないかなと考えています。
それはそれで、なぜ写しが出回ったのか?とか、オリジナルはどこにあるのか?などなど、妄想が膨らみます。