2015年2月1日日曜日

Intermission 奇書! 浅利篤著「児童画とセックス」



昭和34年発行の浅利篤著「児童画とセックス」です。
この衝撃的な題名の本では、多くの児童画を紹介しながら、そこに現れる病理を解明していきます。
かいつまんで言えば、作者は児童画に現れる「赤」と「緑」は性を象徴する色であると主張しおり、そこに病理が現れるのだと。



心の病をその絵から読み解く心理検査は、ロンブローゾの時代から現代でも行われいることでしょうし、その絵に表れるイメージに何かしらの意味づけすることもあるでしょう。
心が性と深いかかわりを持つというのは、フロイトの言うリビドーといったもののように、あることなのかもしれません。

では、何がこの本を奇書としているかと言えば、そういった病理を児童画と、そして性(セックス)とを結び付けていることです。

それがショッキングに思える理由の一つは、子供と性(セックス)という隠しておきたい事柄を直接的に結び付けている点にあるでしょう。
また、児童画とは、かつて自由画と呼ばれ、「大正期の美術教育運動の中で「児童の個性と創造性の開発をめざして山本鼎(かなえ)によって提唱されたもの」であり、そこには、美に対する理想郷として児童画(自由画)がありました。
この本は、そんな美の理想郷に病理と性(セックス)を持ち込んだからだと言えます。

児童画だけでなく、アール・ブリュットに対しても、社会から離れた美の理想郷としてそれを見る人があるようですが、ここに薄ら汚れた人間が土足で入り込んだ印象をもたらしています。

ですが、よくよく考えてみれば、この社会に繋がりを持たないものなど無く、理想郷などそれこそ夢物語でしかありません。
アール・ブリュットなどのある種の美に対し、特権をもたらしているのは私たちの方なのだと、この本は言っているようにさえ思えます。

「児童画とセックス」 だけでなく、「アール・ブリュットとセックス」だってありえるのですね。

昨今、障害者と性が話題になることがありますが、それは大切なことだと思えます。
ただし、そういったことを視覚化しようとする思いだけでなく、隠してしまこともまた、人間の「美意識」なのであり、美術もまたそれぞれに特権を与えることで加担しているのだという自覚が必要なのだと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿