2014年12月31日水曜日

陽咸二 作「日米国際陸上競技大会」記念章メダル


今年最後に紹介するメダルは、陽咸二作「日米国際陸上競技大会」記念章です。

縦3.8cm×横2.3cm、「The International dual athletic meet U.S.A. VS Nippon Tokyo-Osaka」及び「2594」の記述あり。

皇紀2594年は西暦1934(昭和9)年、この年に東京では神宮外苑競技場で、「日米国際陸上競技大会」が行われました。
1941年の真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が始まる7年前に行われた日米両国の親善陸上競技大会。
陽咸二による、両国が硬く結ばれた姿の像は、その後の悲劇への皮肉のようですね。

彼の作品に「燈火抱擁像」という男女が溶け合ったような像がありますが、このメダルも似た手法で、人体をデフォルメ化しています。
その「燈火抱擁像」のイメージが強いのか、このメダルの像が、なんだかホモホモしく感じませんか?



第拾回構造社展出品「壮者」
遺作展となった第10回構造社展の出品作です。
エジプト風というか、ガンダーラ的というか、不思議な魅力を感じるこの彫刻ですが、「壮者(壮年の人。働き盛りの人)」というわりには、破棄や雄雄しさを感じさせない。
どこか柔らかく、女性的で、これもまたホモホモしい。
なんか「さぶ」系といういうより、「BL」っぽいんですよね。

まぁ、本気のBL好きからしたら、どう見えるのかわかりませんが、陽咸二の作品ってそう見えるんですよね。

というわけで、今年の最後はこんなネタで締めます。

2014年12月29日月曜日

作者不明 都新聞「裾模様募集出品記念章」メダル


作者不明のメダルです。
都新聞主催の「裾模様募集出品記念章」。

都新聞とは、明治から昭和にかけて東京で発行された大衆紙で、「都新聞」の号は1889(明治22)年から「東京新聞』となった1942(昭和17)年まで使用されています。

このメダルのデザインを見るに、艶かしい肉体の女神像でありながら、お顔は観音様という和洋折衷。
また、近代彫刻ではあまりない直接的なエロさなどから見て、前近代的な彫刻家による作品ではないかと思われます。
つまり、「都新聞」が使用された明治22年から昭和17年の間の初期に、このメダルが用いられたのではないかと推測します。

もしかしたら 「都新聞」より発行された「都の花」という文芸雑誌(1888年創刊―1893年)とのタイアップだったのかもしれません。
というのも「裾模様」とは和服の柄模様を指し、そういった文化に対しての評論を「都の花」では行われていたそうだからです。

それにしても、作家は誰だろう?
どこかでみたような図なのだけど、思い出せません。
新海竹太郎でもないし、山崎朝雲?

2014年12月21日日曜日

Intermission 「愛苑」 「’70 恍惚革命のゆくえ」座談会 加藤好弘 岩田信一

古書市で何となく買ってみた「愛苑」という'70年代のサブカル雑誌に 「’70 恍惚革命のゆくえ」として、ゼロ次元の加藤好弘、岩田信一、そして、映像作家の金坂健二、岡部道男、金井勝、作家のまさのり・おおえ、高橋鐵による座談会が載っていました。


この「愛苑」は、特集が「背交態位正位論」「現代女性放尿論」と、まぁこういった質が高くてバカバカしい素敵なエロの雑誌ですね。



さて、この座談会ですがが、「幻覚世代を背負う旗手たちの大論戦」と銘打っているわりには、論戦というより居酒屋会議で、特に何かにたいして議論しているというものでもなく、互いにマウンティング(動物が優位性を誇示するための行為)をしているだけにも思えます。

  加藤好弘 「きょう岩田が名古屋から新宿の駅へ来た。いきなり、靴が汚れているといって岩田先生はポリにひっつかまっちゃったわけ...」「天才を見てコンプレックスを持っちゃって、靴が汚いからといって三人がかりで連れていった」
  岩田信一「そういて交番の中へ入ったとたんに衿がみをつかんで、てめえなまいきだときた。」

こういったものを含め、当時の空気がわかって、そこは読んでて楽しい。 

文中で使われている「万博破壊共闘派」はわかるのだけど、「草月フェスティバルの事件」は、1969年の開催当日に造反グループの乱入した事件のことかな?
「六本木少年団」ってなんだろう?


2014年、現代となっては、個々人の拠となるべき体験、「恍惚」や「快楽」までもが相対化され、彼らが熱く語る世界に対しての個の立脚という姿に、強い魅力を持てなくなっている。
ちんこを出して走り回ったところで、社会的良識からではなく、迷惑だからという各々の望みから、軽犯罪として社会に受け入れられてしまう。
それはそれで正しく住みやすい社会なんだろうけど...

2014年12月7日日曜日

野村公雄 作 「男と女」 第拾弐回構造社展覧会出品


野村公雄は、1907(明治40)年東京生まれ、東京美術学校彫刻科塑像部選科卒。
同時期に東京歯科医学専門学校も卒業という変わった経歴の持ち主。

齋藤素巌に師事し、レリーフを多く作成する。しかし、戦後は殆ど制作を行わず、家業の歯科医を続けた。

絵葉書の作品は、第拾弐回構造社展への出品作品です。
この展覧会は1939(昭和14)年に行われました。
1939年はナチス・ドイツ軍によるポーランド侵攻を行い、第二次世界大戦勃発した年です。
日本においては、ノモンハン事件が起きた年であり、陸軍美術協会が発足、「聖戦美術展」が行われます。

そんな時勢でのこの作品は、非常に前衛的であり、アグレッシブ。
この手跡が、作品のもつ構造、構成に目を向けさせ、ジャコメッティのように人間の姿そのものを描こうとする作家の意思を感じさせます。

戦前、そんな作品を残した野村公雄ですが、戦後筆を置いたのにはどんな理由からなのでしょうか?
彼は戦時における統制によって、1944(昭和19)年、構造社を代表して解散届けを出しています。
こうしたことを行なった自身にたいして思うところがあったのでしょうか?
また、戦前彼が実験し、制作したような作品が、戦後になって前衛として受け入れられていく様子を見て 、どう感じていたのでしょう?
「戦争がなければ...」そう考えていたのでしょうか?

2014年12月6日土曜日

「皇后陛下○○馬遊び玩具」絵葉書


こども博覧会に、巌谷小波によって出品された「皇后陛下○○馬遊び玩具」の絵葉書です。

この絵葉書の裏に「こども博覧会事務局発行」と書かれていることから、この博覧会は、1926(大正15)年に行われた「皇孫御誕生記念こども博覧会」だと考えられます。
皇孫照宮成子内親王殿下の御誕生記念として開かれたこの展覧会は、古今東西の各玩を展示し、また百貨店による子供のための部屋や道具の展示、パビリオンなどによって、当時における新時代の子供の像を表しました。
このカタログが近代デジタルライブラリー で閲覧できるようです。
上記の絵葉書の作品も見ることができます。

作品の出品者、巌谷小波(いわや さざなみ)は、児童文学者でお伽噺「桃太郎」や「花咲爺」などをまとめ再制作した人物です。

この作家の所有品だったのが、貞明皇后が遊ばれたというこの玩具。
素材は象牙のようです。
貞明皇后の子供時代である明治初期は、象牙による輸出用作品が大ブームであり、この玩具もそういったものだったのでしょう。
それにしても象牙が玩具とは...

この作品の作者名は不明です。
象牙作家と言えば、石川光明や旭玉山等があげられますが、どうでしょうか?