2012年12月11日火曜日

絵葉書問題続き


結局、小倉右一郎の彫刻寫眞領布會が解散することで、このドタバタに膜を下ろすこととなるが、しかし、問題はこの両者の争いだけに留まらなかった。

1925年12月発行の「アトリエ 2巻2号」には、美術批評家落合忠直が「帝展の彫刻部の暗闘に同情す」題してこの問題を論じている。
「エハガキ屋が二軒対立して、それが作家から一々承諾を得た物を売ることになると、一方の写真屋のみ許した男は朝倉派と見做され、一方の方へ承認した者は旧曠原社派と見做され、ちゃんと党派の色別が出来てしまふのである。」「党派の色別けが出来るとなると、自然それによって党派心から審査の手心が起きて来るのは、人情として止むを得ぬ事なのである。それで朝倉派に写真を承諾しようか、曠原社派へ承諾しようかと云ふことは、入選するかせぬかの分かれ目になり、作家の心の中に恐ろしい不安な影を投げたので、他所から見ると、若い人達の迷ひは気の毒なものであつた。」
つまり、朝倉文夫の設立した美術寫眞はん布會と小倉右一郎のそれのどちらに写真の承認を与えるかによって、どちらの派閥に属するのかといった振り分けが行われるのではいか、帝展への入選が決まるのではないかと、若い彫刻家たちが右往左往することとになったのだ。帝展への入選はまさに人生を変えるものであり、成功の道であり、それが絵葉書によって左右されるような話になってしまった。

落合忠直は、「僕も朝倉君の人格を非難しようと云ふのではなく、その親分肌の親切気には感心してゐるのだから、批評家としての立場から、もう少し考へて事をしたらどうかと云ふ事を、若い人の苦衷になり代わつてお願ひをして置くのである。」と朝倉文夫に気を使いながらも苦言する。そして、こんなことになったのは何よりも彫刻家が貧乏だからだとしているのが面白い。彫刻家をして「呪われている人達をよと、しみじみ同情を寄せられるのである。」とまとめている。

さらに、この絵葉書写真問題は、彫刻家らのこれまで溜まった帝展への不満が吐き出す契機となる。若手の実力派で帝展彫刻部の委員でもあった齋藤素巌は帝展への出品予定の作品の出品を拒否する。大正14年10月12日の東京朝日新聞にて「彫刻界のごたごたに業を煮やした斉藤氏 一年がかりの苦心の大作「石彫り」の出品を拒否す」「帝展彫刻委員会で押しも押されぬ堅実な地歩を進む齋藤素巌氏は例の東台彫そ会解散後一般彫刻界に引続き起こつたごたごたに對して潔癖一片の性格で忌々しげに眺めてゐたが、遂に最近におけるヱハガキ寫眞問題から続く鑑別会の内情に業をにやし、『そんな雪陰のもひとしい場所へ神聖な作品を並べるに堪へない』とて一年がゝりの苦心製作の大群像『石彫り』を出品せざることに決心するに至つた。」「今後独りで勉強を続ける 近く適当な方法で発表 當の斉藤素巌氏語る」としている。

絵葉書は、楠木正成公の銅像原型で、齋藤素巌によるものです。銅像は、神戸市の湊川公園に設置されています。

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